第1話 知らない僕と、知っているクロエ
『オーシャンズ・キッド(進化の境界線)』の最終話まで投稿が終わりました。
本編を書き切ったあとの余韻がまだ胸の中に残っていて、
気づけばそのまま“B面”にあたる物語——
『クロエは、僕の心をペロリと舐めた』のクロエとハルのエピソードを投稿していました。
昔のドーナツ盤レコードのように、
A面が物語の中心を奏でるなら、
B面はその裏側で静かに流れる、もうひとつのメロディ。
そんな位置づけの小さな物語です。
本編とは別の場所で紡がれながら、
それぞれが独立した物語としてそっと息づいています。
よかったら、A面の余韻のまま、B面も楽しんでいただけたら嬉しいです。
太陽の光が僕を照らす朝。
ふと目を覚ます。
「わ~ぁ」と、涙まじりの声が漏れる。
「眠い……」
「えっ!」
見たこともない家具や飾りが、
部屋いっぱいに並んでいる。
僕は目をこすり、
ゆっくりとまぶたを大きく開いた。
そして、部屋の中をぐるりと見渡す。
聞こえるのは、時計の針の音だけ。
しばらく口を半開きにしたまま、
僕はじっと時計を見つめていた。
突然――「ピクッ」と体が震えた。
「ヒぃ……」
まるでバンジージャンプで下を見た瞬間のように、
体が強張り、震える。
受け入れがたい現実が、
じわじわと実感になって押し寄せてきた。
――僕は、“今”を理解した。
理解した途端、恐怖が全身を駆け巡り、
僕はその場から逃げ出した。
ドアを探し、
「うわあぁ!」と叫びながらノブをつかみ、
勢いよく飛び出す。
(僕の名前は、ハル)
ハルは腰が抜け、
廊下にへたり込んだ。
見慣れたはずの廊下。
キッチンの奥では、
母さんがいつものように動き回っている。
開け放たれたままの部屋を振り返り、
僕の頭は真っ白になった。
確かに――自分の部屋だ。
「僕は……どうしちゃったんだ……」
左手で自分の頭をコツコツと叩きながら立ち上がり、
洗面所へ向かう。
顔を洗い、
鏡に映った自分を見た瞬間――
口にくわえていた歯ブラシが、吹き飛んだ。
そこにいたのは、
明らかに成長した自分だった。
「ああぁっ!」
記憶の中の僕は、小学三年生のはず。
なのに鏡の中の僕は、
どう見ても五、六年生に見える。
再び腰が抜けそうになりながら、
僕はふらつく足でキッチンへ走った。
「お母さん、大変だ! 僕、僕……!」
深呼吸をして、
ハルはゆっくり口を開く。
「ぼ……僕、五、六年生になっちゃった」
すると母さんは呆れた顔で言った。
「何、寝ぼけたこと言ってるの」
「顔じゅう歯みがき粉だらけよ!」
「ハルは来月から、りっぱな六年生でしょ!」
「でも……」
「あの……」
――聞くのを、あきらめた。
朝食を食べながらも、
頭の中は落ち着かない。
ふと気づく。
自分の考え方や仕草が、どこか“大人っぽい”。
テーブルに並ぶ朝食。
見たことのないテレビ番組。
家具も、床も、記憶の中よりずっと立派だった。
何もかもが、記憶と違っていた。
そのとき――
「クゥン……」
泣き声が聞こえた。
レースのカーテン越しに、黒い犬がいる。
初めて見るはずなのに、
なぜか懐かしかった。
「お母さん、あの犬、どこの犬?」
「ハルが四年生のときに拾ってきた犬よ」
僕は適当に話を合わせたが、
頭の中は、
ホイップクリームとからしソースを
無理やり混ぜたみたいに、
ぐちゃぐちゃだった。
犬の前に立つ。
すると、しっぽが静かに揺れた。
その瞬間、自然に言葉がこぼれる。
「……クロエ」
どうしてだろう。
涙があふれてきた。
「クロエ! クロエ!」
名前を呼んだ瞬間、
クロエは全身で喜びを表しながら飛びつき、
僕の顔を夢中で舐め回した。
「やめろって……!」
でも、嬉しかった。
一人と一匹はしばらくの間、
互いに寄り添いながら、
暖かな朝の光に包まれ、
静かな時間を過ごした。




