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第15話 ひび割れる時の流れ

四月の職員室は、窓から差し込む光のせいで、

いつもより明るく見えた。


けれど、その明るさとは裏腹に、

空気はどこか張りつめていた。


「では……次の議題に入ります」

ゆかり先生が資料を整えながら、

ちらりと清瀬先生の方を見る。


昨日から続く、

あの説明できない違和感が、

まだ胸の奥に残っていた。


清瀬先生は、ゆっくりと立ち上がった。

その動作は丁寧で、礼儀正しい。


――なのに、どこか“冷たい空気”を感じる。


「子どもたちの観察について、ひとつ提案があります」

その声が響いた瞬間だった。


ゆかり先生の背筋に、細い氷の線が走った。

理由はわからない。

ただ、何かが“ずれている”。


そして――

家でテルを静かに待っているクロエの耳が、

ほんのわずかに震える。


テルは、まだ知らない。


ゆかり先生も、まだ気づけない。


けれどクロエだけは知っていた。


清瀬の言葉が、

世界のどこかに“ひび”を入れたことを。



「私は、観察記録の基準を見直すべきだと思います」

清瀬は淡々と続けた。


「……観察とは、子供たちの心の奥の想いを拾い、

私たち教師が正すことです」


「教師への暴言、生徒のわがままを許してはいけません。

自由にさせてはいけません」


「子どもたちの“心の乱れ”を、

もっと早く、もっと正確に捉えるために」


清瀬がそう言った瞬間。

職員室の空気が、わずかに沈んだ。


だが――

本当の“落下点”は、このあとだった。


佐伯先生が、慎重に口を開く。


「……清瀬先生。ですが、私たちは子どもたちの成長を信じて――」


その言葉を、清瀬は静かに遮った。

「成長を“信じる”のは、教師の怠慢です」


職員室の空気が、凍りついた。


年配の教師たちは、明らかに顔を曇らせる。


だが――若い先生たちは、わずかに息を呑んだ。

(……たしかに、そうかもしれない)

(最近の子どもたちは、難しいし……)


そんな“揺らぎ”が、

ほんの一瞬だけ若い先生らの表情に浮かぶ。


清瀬は、その揺らぎを見逃さなかった。

「信じる、という言葉は便利です。

“見なくていいもの”を見ないための、逃げ道になります」


その声は穏やかで、丁寧で、

それなのに――

教師たちの根幹を否定するほど冷たかった。


若い先生たちは、

その“正しさを形にした言葉”に、危うく頷きそうになる。


「子どもは、放っておけば必ず間違えます。

だから私たちが“導く”のです。

甘えを許す教師こそ、子どもを傷つけるのです。」


その一言で、

年配の教師たちは言葉にはしないが、

その表情には強い憤りがにじみ出ていた。


そして、その視線はいつのまにか、

若い教師たちの方へも、静かに流れていった。


しかし若い教師たちは、

その場で言葉を失いながらも、

どこかで、

“正しいのかもしれない”という思いが心に沈んでいった。


ゆかり先生の心臓が、ひとつだけ遅れて脈を打つ。

(……違う。違うはずなのに)

その“違和感”だけが、冷たく胸の奥に落ちていった。


同時刻――

クロエは、玄関の方を見つめたまま動かない。

耳が、小刻みに震えていた。


世界の“向こう側”が、

確かに、音を立てて近づいていた。


そして――

誰にも見えない場所で、

薄い膜のようなものが“パリッ”と割れた。

夢界が、再び静かに開いた。


職員室の空気は、沈んだまま動かない。


若い先生たちは、

その清瀬先生の言葉”に揺らぎ、


年配の先生たちは、

静かに怒りを飲み込んでいた。


そのとき――

ガラッ。


職員室の扉が、

遠慮のない音を立てて開いた。


「すみませーん! 遅れました!」

明るい声。


空気を読まないほどの軽さ。


安藤美咲が、

書類を抱えたまま駆け込んできた。


保健室のアルバイト職員。


本来、この会議に出る必要はない。


だからこそ、

その登場は“異物”のように見えた。


ゆかり先生が驚いて振り返る。


佐伯先生も眉をひそめる。


だが――

一番強く反応したのは、清瀬だった。


動きが止まった。


ほんの一瞬。


呼吸すら忘れたように。

「……安藤、先輩……?」


その声は、

いつもの丁寧さでも、冷たさでもない。


“動揺”だった。


美咲先生は、にこっと笑った。


「あれ、清瀬くん? 久しぶりじゃん。

まさか同じ学校にいるなんて思わなかったよ」


若い先生たちがざわつく。

(え、知り合い……?)

(しかも“先輩”って……?)


清瀬は、

一瞬だけ視線を落とし、


すぐにいつもの無表情へとたて直した。

「……どうして、ここに?」


美咲先生は、悪びれもせず言った。


「校長先生に呼ばれたの。

“保健室の観察記録について意見が欲しい”って

最近、保健室を利用する子供たちが多くなって」


その瞬間――

職員室の空気が、

別の意味で凍りついた。



職員室の誰もが、

次に何が始まるのかを理解できずにいた。


ただ一人——

清瀬だけを除いて。


清瀬の提案した“観察記録の基準見直し”。

その議題に、

大学時代の先輩が突然呼ばれていた。


偶然なのか。

必然なのか。

誰も分からない。


ただひとつだけ確かなのは――

清瀬先生の表情から、初めて“余裕”が消えた。


その変化の意味とは何か?

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