第11話 クロエからはじまる一つの平和
ジェシカが帰ったあと、
いつもより穏やかな夕食を終え、
ゆきえは食器を片づけながら、ずっと笑っていた。
「クロエ、今日は本当にすごかったわねぇ……」
リビングの真ん中で丸くなって眠るクロエ。
その寝顔を見つめながら、
ゆきえはまるで自分の子どもを褒めるように、
何度も何度も言葉をこぼした。
「ジェシカちゃんにあんなに懐くなんて……
クロエ、あなた……本当に成長したのねぇ」
しげるが苦笑しながら頷く。
「たしかに。あんなにべったりになるなんて、珍しいな」
「そうなのよ。
最初はあんなに警戒してたのに……
最後は膝で寝ちゃうんだもの。
あれはもう……“家族”として認めた証拠よ」
ゆきえの声は、
誇らしさと嬉しさで少し震えていた。
「クロエがね、ちゃんと人を見て、
自分で判断して、
心を開いて……
ああ、なんていい子なのかしら」
まるで、
初めて友達を家に連れてきた子どもを
褒めている母親のようだった。
「あなた、聞いてる?
ジェシカちゃん、すごく礼儀正しくてね……
クロエのことも大事にしてくれて……
あんな子、なかなかいないわよ」
しげるは湯飲みを置き、
ゆきえの言葉に静かに頷いた。
「そうだな。
ハルも……いい子に出会ったんだな」
その言葉に、
ゆきえはふっと目を細めた。
「ええ……
クロエがあんなに心を許すなんて、
きっと……本当にいい子なんだと思うわ」
ゆきえはクロエの寝顔を見つめながら、
胸の奥からこみ上げるように言った。
「……クロエ、ありがとうね。
あなたのおかげで、
この家は今日、すごく温かかったわ」
クロエは眠ったまま、
小さく尻尾を揺らした。
ゆきえが思わず笑って言う。
「……あら、寝たふり?」
その光景は、
家族の夜の中に
そっと灯った小さな明かりのようだった。
ただ——
その温かさの輪の少し外側で、
ハルだけが静かに息をついていた。
ゆきえの喜びの声を聞きながら、
ハルは胸の奥が少しだけ痛んでいた。
(……なんでだろう)
ジェシカが家に来て、
クロエと仲良くなって、
家族が笑って、
みんなが嬉しそうで——
本来なら、
自分も喜ぶべきなのに。
(……なんで、僕だけ……)
その答えは、
まだ言葉にならなかった。
その夜、クロエがそっと寄り添ってきて、
僕の頬に小さな鼻を擦りつけた。
そのしぐさは、ペロリと舐められたときよりも、
心の奥へと——そっと触れてくるようだった。
まるで、
「大丈夫だよ、私にまかせて」と
小さくささやかれたように感じた。
胸のざわつきは少しだけ静まったけれど、
完全には消えなかった。
ハルはいつもよりゆっくり歩いていた。
クロエは家で、ゆきえに甘えている。
今日はクロエも一緒じゃない。
ひとりで歩く道は、
朝の光が差しているのに、どこか冷たかった。
学校に着くと、
タケシが大声で手を振ってきた。
「おーい、ハル!」
「昨日ジェシカ来たんだって!?」
「……まあ、うん」
「クロエと大変だったんだって?」
「……まあ、うん」
タケシはなぜか嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、ハルは少しだけ驚いた。
「でもさ、あのジェシカが朝からご機嫌でさ。
あんな嬉しそうにクラスメートと話してるの初めて見たよ」
周りの友達も集まってきて、
口々に言う。
「ジェシカって優しいよな」
「ハルのこと、よく見てる感じするし」
「なんかクラスが一つになった気がするよ」
みんなが笑って、
朝の空気がいつもより明るく感じられた。
その輪の中で、
ハルはふと気づいた。
(……そうか)
胸の奥にあった痛みの正体が、
ゆっくりと形を持ち始める。
(ジェシカは……
僕の“初めてのガールフレンド”なんだ)
クロエが懐いたことが嬉しいはずなのに、
どこか寂しかったのは——
“初めての友達”を、
家族とクロエに取られたような気がしたから。
もちろん、誰も悪くない。
ジェシカも、クロエも、家族も。
むしろ、みんな優しい。
でも、
ハルの胸の奥には、
小さな“独り占めしたい気持ち”があった。
それを初めて自覚した瞬間だった。
そして、ハルは気づいた。
ジェシカも、タケシも、
みんな——
僕にとって大切な仲間なんだ。
そのとき、
タケシがふっと横に立った。
「……なあ、ハル」
いつもの大声じゃない。
少しだけ、落ち着いた声だった。
「お前、保健室に行ったときから……
なんか悩んでねぇか?」
ハルは答えられなかった。
タケシは笑わず、
ただ、まっすぐ言った。
「自分ひとりで抱えんなよ。
俺たち……お前の仲間なんだからさ」
その言葉に、
そばにいた友達も自然と頷き、
順番にハルの肩を軽く叩いて歩きはじめた。
「ハル、大丈夫だって」
「なんかあったら言えよ」
「お前、ひとりじゃねぇからな」
みんなが教室へ向かう足音が、
いつもより柔らかく聞こえた。
ハルは胸の奥が、
また少しだけ熱くなるのを感じた。
自分の周りで何が起きているのか——
まだ全部は理解できない。
でも、
胸の奥でそっと灯っている熱の中心には、
クロエの気配が静かに寄り添っていた。
昨日、クロエがそっと見せたあのしぐさ——
あの優しい温もりが、
まだ胸の奥に静かに残っていた。
まるで、
心の奥に置いていってくれた小さな思いが、
ゆっくりと広がりながら
僕をそっと支えてくれているようだった。




