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第13話:テルノミクス(10) 財務省の敗北 ― 帳簿ではなく現実を見よ

 霞が関、財務省本庁舎。四階の事務次官室。

 夕暮れの光の中に沈む部屋で、黒田篤紀は最新の月例経済報告を見つめていた。

 そこには、彼が財務官僚として信じてきた「財政規律」という神話が、根底から崩れ去った証拠が記されていた。


 インフレ率(コアコアCPI):2・0%。安定。

 完全失業率:0・8%。

 実質賃金上昇率:前年比+12・0%。

 名目GDP:一、五〇〇兆円(就任時の倍以上)。

 一般会計税収:過去最高を更新。


 消費税を全廃した。二十数兆円の減収になるはずだった。国庫は枯渇し、財政は破綻するはずだった。しかし結果は——好景気による法人税の激増、賃上げによる所得税の増収が、それを遥かに上回っていた。

 黒田は、その数字の前で立ち尽くしていた。


 ノックの音がして、ドアが開いた。大和テルが入ってくる。三年前の就任直後に見せたような、研ぎ澄まされた刃物のような殺気はもうない。そこには、激動の海を乗り越え、確かな結果を出した指導者だけが持つ、静かで重厚な風格があった。


「……大臣」


 黒田は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。テルはゆっくりと歩み寄り、机の上のレポートに視線を落とした。


「どうですか、黒田さん。金利は暴騰しましたか? ハイパーインフレになりましたか? 国は、破綻しましたか?」


 黒田は、震える手で眼鏡を外した。認めるしかなかった。自分の信じてきた「正義」が、実はこの国を窒息させていた「首輪」であったことを。帳簿の数字を合わせることに必死になるあまり、その向こうにいる生きた人間を見ていなかったことを。


「……いいえ」


 黒田の声は、枯れていた。


「企業は過去最高益を出し、国民の給与は上がり、財政も……健全化しています。……完敗です、大臣」


 黒田は机に手をつき、深々と頭を下げた。


「申し訳、ありませんでした……!」


 テルは、しばらく無言で黒田の背中を見下ろしていた。そして、静かに言った。


「円安は、副作用ではありませんでした。弱りきり、歩けなくなっていた日本経済をリハビリし、国内生産という筋肉を蘇らせるための、一時的な防護壁ギプスだったのです。法整備の遅れや原発再稼働による痛みは私の罪だが、その代償として、我々は生産基盤と食料基盤という最強の筋肉を取り戻した」


 テルは窓の方を向いた。


「松葉杖は、もう要りません。日本は、自力で歩けますよ」


 その瞬間。

 テルの目には、はっきりと見えた。

 黒田の身体を、そしてこの財務省という巨大な石造りの建物を、長年にわたってがんじがらめに締め上げていた、あの禍々しい黄金の大蛇——【貨幣の鎖】。

 それが、音を立ててひび割れ、砕け散っていく様が。


 パリーン……!


 幻聴のような、しかし確かな破壊の音が響く。鎖の破片は光の粒子となって霧散し、霞が関の空へと消えていった。

 黒田自身も、鎖は見えないながらも、長年背負っていた重い石が取り除かれたような、不思議な解放感を感じていた。


「黒田さん。貴方は優秀な官僚だ。その能力を、これからは予算を『削る』ためではなく、国家戦略のために『使う』方へ向けてください」


 黒田は、涙を拭い、背筋を伸ばした。その顔つきは、もはや「緊縮の番人」のそれではない。国家の奉仕者としての、新たな使命感に燃える顔だった。


「……はい。喜んで、大臣」


 【貨幣の鎖】は、砕かれた。

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