第13話:テルノミクス(8) 大逆転 ― Jカーブの証明
日本経済という巨大な歯車が、轟音を立てて回り始めていた。
JDMをはじめとする輸出企業は、円安を追い風に世界市場を席巻し、史上空前の利益を叩き出していた。そして今、企業の財務担当者(CFO)たちは、かつてない決断を迫られていた。
豊名自動車、本社役員室。
CFOが、タブレットに表示された莫大なラルの残高を見つめている。
「かつてなら、この利益はそのままアトランティス国債の購入に回すか、現地工場への再投資に使っていた。その方が利回りが良かったからだ」
CFOは、顔を上げて社長を見た。
「ですが、今は違います。国内のJDM工場への設備投資、下請けへの支払い、そして従業員への大幅な賃上げ……すべてに『円』が必要です。しかも、今の日本への投資リターンは、アトランティス国債を遥かに上回る」
社長が頷く。
「ああ。稼いだラルを持っていても仕方がない。日本に持って帰るぞ」
「了解しました。……全額、円に転換します」
レパトリエーション(資金還流)。
輸出企業が、海外で稼いだ外貨を売り、自国通貨を買い戻す動き。それが、これまでにない規模で発生したのだ。
東京外国為替市場。
数ヶ月前まで「日本売り」一色だったディーリングルームの空気は、一変していた。
「輸出企業からのラル売り円買いオーダー、止まりません! 桁が違います!」
トレーダーが絶叫する。
「ヘッジファンド勢、パニックです! ショートカバー(買い戻し)に走っています!」
今まで円を空売りして儲けていた投機筋が、実需の猛烈な買い圧力に踏み潰され、慌てて円を買い戻し始めたのだ。買いが買いを呼ぶ、スパイラル的な上昇。
モニターのチャートが、V字を描いて急上昇していく。
一ラル=三六〇円。
三〇〇円。
二五〇円。
二〇〇円……。
底を打った円相場は、日本経済の実力の回復を反映し、過度な安値から力強く適正水準へと戻り始めていた。
「これが……Jカーブ効果……!」
老練なディーラーが、震える手で眼鏡を直した。
為替の変動当初は、輸入コスト増で貿易収支が悪化する。しかし、時間が経ち、数量調整(輸出増・輸入代替)が進めば、収支は劇的に改善し、通貨価値は回復する。
経済学の教科書の中だけの話だと思われていたその現象が、今、日本という巨大な実験場で、鮮やかに証明されようとしていた。
もはや円は、投機のおもちゃではない。世界最強の製造業と、エネルギー自給に裏打ちされた、真の「安全資産」へと変貌を遂げていた。




