第14話:設計者の子守唄(1) 赤い鎖
令化三十五年、初夏。日本の夜は、柔らかな、しかし確かな熱を帯びていた。
それは官庁街の会議室で作成された統計データの上にのみ存在する、無機質な数字の羅列ではない。人々が街角で吸い込み、吐き出す空気の匂い、高架下から響く電車の駆動音、確実に食卓を囲む家族の肌のぬくもりに直接現れる、皮膚感覚の次元における変化であった。
大田区の町工場街では、夜遅くまで最新鋭の五軸加工機が唸りを上げ、油と削り屑の匂いが闇に溶けていく。駅前の赤提灯からは、かつての陰鬱な沈黙に代わって、ビールジョッキをぶつけ合う音と、明日の仕事の予定を語り合う職人たちの太い笑い声が溢れていた。南海トラフの爪痕がいまだ残る四国や九州の沿岸地帯では、復興の槌音が潮風に乗って響き渡り、ただ壊れたものを修復するだけにとどまらず、より堅牢なコンクリートの防壁や新しいバイパス道路が、次々と大地の骨格を書き換えていた。
横浜市、港北区。
望月雄介は、自宅のリビングで冷えた缶ビールを傾けながら、ソファに深く体を沈めていた。窓を開け放つと、梅雨入り前の湿気をわずかに帯びた、しかし心地よい夜風がカーテンを優しく揺らして通り抜けていく。
「お父さん、明日の日曜日、ドローンの操縦練習に付き合ってよ」
ダイニングテーブルで宿題を広げていた小学六年生の息子、翔太が、顔を上げて言った。その瞳には、かつての飢えに怯えていた影は微塵も残っていない。
「ああ、いいぞ。JDMの最新シミュレーターアプリを入れておいたから、明日はみっちりしごいてやる。覚悟しておけよ」
雄介が笑って答えると、キッチンで洗い物をしていた妻の栄子が、泡のついた手を振って応えた。
「あんまり遅くまで熱中させないでよ。明日の朝、起きられなくなったら承知しないからね」
ありふれた、しかし完璧な家族の風景。だが、雄介にとって、この温かい日常は決して当たり前のものではなかった。
三年前まで、彼は失業の絶望に打ちひしがれていた。円安倒産で輸入家具商社の職を失い、家族を食わせるためにハローワークで見つけたJGPの農耕部隊に身を投じた。元自衛官の容赦ない怒号の下、腰の痛みに耐え、泥まみれになりながら荒れ地を開墾していた日々。あの頃は、長年のローンを抱えたこの港北区の一戸建てを手放すことも本気で覚悟していた。
だが今は、JDM(日本ドローン製造)の物流部門の正社員として、誇りを持って働いている。給与は安定し、消費税が撤廃されたことで家計の負担は劇的に軽くなった。週末には家族揃って外食を楽しむ余裕も生まれ、息子の将来の夢を笑顔で聞くことができる。
「本当に……変わったよな」
雄介は、冷たいビールのアルミ缶を握りしめ、小さく呟いた。
テレビの画面では、夜のニュース番組が流れている。画面の中のコメンテーターが、深刻そうな顔で、聞き覚えのあるフレーズを滑らかに口にしていた。
『我が国の経済が回復基調にあることは事実ですが、ここで我々が忘れてはならないのは、近隣諸国への配慮です。過去の不幸な歴史に対する真摯な反省と、アジア太平洋地域との友好を第一に考えなければ、真の国際社会からの信頼は得られません。自立を急ぐあまり、独善的なナショナリズムに陥ることは最も警戒すべきです』
雄介は、その言葉をBGMのように聞き流した。幼い頃から学校で、新生のテレビで数え切れないほど聞いてきた、耳馴染みの良い、あまりにも当然の定型文。そこに疑問を差し挟む余地など、彼の中には一ミリも存在しなかった。
同じ刻。霞が関の巨大な官庁街を見下ろす、議員会館の最上階。
ヤマト・テルは、執務室の窓ガラスに額を寄せるようにして、眼下に広がる東京の夜景を静かに見下ろしていた。
テルノミクス。
消費税の完全廃止、政府による直接雇用保証、財政支出の大胆かつ恒久的な拡大。黒田次官率いる財務省という巨大な牙城を崩し、「財政赤字は悪である」という七十年来の呪縛を打ち砕いたあの闘争の果実は、今、日本という巨体の隅々にまで健康的な血液を行き渡らせていた。
財務省の本庁舎をギリギリと締め上げていた、あの禍々しい黄金の【貨幣の鎖】は、すでに砕け散り、影も形もない。
しかし、テルの瞳の奥には、全く別の不気味な光景が映し出されていた。
テレビのモニターから流れる、先ほどと同じコメンテーターの言葉。『過去への反省』『近隣諸国への謝罪』『配慮』。
その言葉が電波に乗って日本中に響き渡るたび、眼下の街を行き交う人々の頭部を、半透明の赤いヘッドギアのようなものがすっぽりと覆っていくのが見える。
それは、決して物理的な暴力を伴うものではない。だが、人々の「考える力」や「国家としての誇り」を根本から麻痺させ、「自己責任」「仕方ない」「空気を読め」といったサブリミナルメッセージを絶え間なく脳裏に流し込み続ける、薄気味悪い精神の拘束具。
腹が満たされたとき、人間は次に何を求めるか。それは「意味」だ。自分が何者であり、この国がいかなる魂を抱えているのかという、アイデンティティへの根源的な問いだ。
経済のパイが拡大し、国力が回復しているにもかかわらず、この国の言語空間だけは、七十年前から冷凍保存されたように凍りついている。いや、国民の自信が戻りつつある今だからこそ、その呪詛のような定型文が、焦ったように声高に繰り返されているようにテルには見えた。
「【貨幣の鎖】は断ち切った」 「次は――【思想の鎖】だ」
その静かで冷徹な宣戦布告は、分厚いガラスに遮られ、夜空へと溶けていった。




