帰りたくない
「……どうした……起き……ろ……」
「う、ううん……」
頭の芯の辺りが呆として、鈍痛が緩慢に脳を刺激してくる。
全身を苛む脱力感を強引に揺り動かされたことがかなり鬱陶しく感じられ、身体にまとわりつく何かを思わず払いのけた。
霞みがかった視界が次第に明瞭になっていくと、始めに目に入ったのは深緑の木々だった。
それから人の輪郭が、帽子を浅く被った色黒の、恐らくは商人なのだろう、口に煙草をくわえて、じっとこちらを覗き込んでいるのがわかる。
自分はどうやら地面に横たわっているらしい。
そう気づいたパルムが上半身を起こす。
辺りはすでに暗い。
自分の置かれた状況を整理する。
此処は見覚えがあった。
妖精の森へ向かう途中の街道だ。
一見して似たような道ばかりだけれど幾つか合致する特徴がある。
森からはそれほど距離が離れていないだろう。
「く……っ」
「若いの。こんな場所で寝ていると馬に引かれるぞ。平気か?」
「ああ。大丈夫」
軽く頷く。
男は笑顔で「それじゃあな」と言うと街道を先へ進んでいった。
男性の背中が夕闇に消えると、パルムの意識が再び活性化され、妖精の森で起きた出来事とエリーのことを思い出す。
「エリー! エリー何処だ!」
周囲を見渡す。
見える範囲には姿がない。
パルムは膝に力を込めて立ち上がった。
爪先に手斧が当たる。
手に取って腰に収めた。
一体全体どうなっているのか。
妖精の森でパルムとエリーは気を失ったはずだ。
それが気づけば街道に逆戻りだ。
「エリー! 返事をしてくれ!」
誰もいない街道で叫ぶ。
すると、街道脇の木々の隙間からふらふらと、エリーが出てきた。
「パルムさん。此処です」
「エリー! 無事だったのか!」
慌てて駆け寄ると、エリーは安堵したのだろう、パルムの腕に倒れるようにしてしがみついた。
平気です、と告げる彼女と一緒に街道脇に腰を落とす。
夜が迫ってきたせいで街道を歩く人は皆無に等しく、吹き抜ける風が容赦なくパルムとエリーに当たってくる。
「パルムさんが平気そうで良かったです」
「エリーこそ。それで、一体俺たちはどうして此処にいるんだ。確か妖精犬に襲われたんだよな。それからの記憶がないんだ」
「私もです。パルムさんを助けようとして、そうしたら、急に意識がなくなったのです。気がついたらそこの茂みに倒れていました。パルムさんの声が聞こえたので、こちらに来たのです」
「……そうか」
木々の向こう側、妖精の森があるであろう方角を見据える。
一体全体、何があったのか。
時刻は随分経っていて、気を失っていた時間は恐らく四H程度だろう。
妖精犬にやられてから、先ほどの男性に起こされるまで此処で眠っていたということか。
「それにしても、どうして此処に倒れていたんだ?」
「パルムさんが運んでくれたのではないのです?」
エリーの問いに首を振る。
「俺もエリーに駆け寄った後、すぐに気を失ったんだ」
「私はてっきりパルムさんが運んでくれたとばかり思っていました。じゃあ無意識の馬鹿力というものですか、そうですか」
「違うだろ、多分」
否定したものの、パルムにも他に説明の仕様がなかった。
無意識の可能性を否定したとすると、他の可能性を考えることになる。
つまりパルムとエリー以外の第三者が運んだ可能性だ。
只、妖精の森に用がある者というはなかなかいない。
森と街との関係が良好だった時代はとうに終わっている。
不用意に近づけば、今回のパルムとエリーのような仕打ちを受けることになるのだ。
「俺たちの他に誰か見たか?」
「いえ。見ていません」
つまり、というか、やはり第三者の可能性は低いと言わざる終えない。
見当がつかないな。
パルムは薄暗い空を見上げて吐息を漏らした。
「伐れなかったなあ」
妖精の森の木というのは我ながら良いアイデアだと思ったのだけれど、行ってみてはっきりしたことは、あれは無理だという悲観的な結末だった。
言葉が通じなくても、悪意や敵意がないことがわかればどうにかなると思っていた。
しかし、妖精犬にはそれも通じない。
「パルムさん、これからどうします?」
「もうすぐ日が沈む。とりあえず街に帰ろう。どうするかは明日考えるんだ。エリーの両親に心配をかけるわけにはいかないだろ」
ズボンに付いた埃を落とし、エリーを立たせる。
「私、今日は帰りたくないのです」
「えっ」
「今日は一緒にいて欲しいのです」
そういうと、エリーはパルムの服の裾を掴んできた。
薄闇のなか、思いがけない言葉に、パルムの胸の動悸が急に加速する。
先ほどまでの雰囲気とは違い、夜風になびく髪を抑え、こちらを見上げるエリーの視線は気のせいか潤んで見えた。
早鐘を打つ心臓を聡られまいとして、パルムは小さく深呼吸をして喋り出した、否、したつもりだった。
「今日はって、夜までってことかな?」
自分でも驚くほど声が上擦ってしまった。
かーっと熱くなる両耳に、しかしエリーは気がつかなかったようだ。
少女はふるる、と可愛く首を横に振った。
「ずっとです。ずっと。夜だけじゃない。一緒に、いてください」
「寝る時も?」
「はい。寝物語に聞かせて欲しいのです。パルムさんのこと」
「ああ、そう、うん、でも、そういうのはもっと大人になってからね。ほら、俺にも色々心の準備がさ」
自分でも呆れるほどにしどろもどろになり、額にひんやりと冷たい汗が浮かんでくる。
一体全体、エリーが何を言いたいのか。
寝物語って、意味をわかって言っているのかと問い詰めたい。
その結果、わかってますと返答されたら、それはそれで困るのだけれど。
「パルムさんは私のこと、どう思っています?」
「エ、エリー……」
大きく見開かれた瞳から目が離せない。
「私はパルムさんを……その……心から……」
「エリー……実は俺も」
すでに思考も朧になりつつあった。身体は心の思うまま。
ぐぐっと背を丸め、エリーに顔を近づける。
紅潮した頬や、潤んだ瞳、薄く結んだ唇にまるで自分が吸い込まれていくようで、パルムはすっかり魅了されていた。
その後のエリーの言葉がなければきっと、以前、ヘクターに言われた通りになっていただろう。
「パルムさんのこと、尊敬しています!」
「……うえっ、そ、尊敬?」
後少し、というところでパルムは動きを止めた。
エリーは不自然な体勢のまま固まったパルムに、無邪気な笑みを返す。
「そうです。パルムさんの話を聞いて、本当に感動したのです。パルムさんは信頼に値する人なのだと。私を悲しませることなんて絶対しない。
ましてや、法に触れるようなその辺りにいる不誠実な輩とは断じて違うと。だからパルムさんの話をもっと聞きたいのです」
パルムはそこまで聞くと、そっと身体を離した。
つい寸前まで高熱でうなされていた病人が、真冬に裸で外気に放り出されたような、身も凍る恐怖体験に遭遇したような、それほどに身体の芯は冷えていた。
「パルムさん? どうかしましたです?」
「いえ、なんでもありません、です」
危うく信頼を損なうところだった。
以前、エリーに口づけされた頬を触り、ようやく夢心地から覚めた。
良い夢見られたなあ、と思った。
一瞬でもエリーと添い寝することを想像できたのだから、良しとするか。




