火災
着替えを終えたパルムと妖精たちが事務所を飛び出した頃には妖精犬の鳴き声は止んでいた。
きな臭い匂いがしてパルムは空を見上げた。サブウェイの細い路地から覗く夜空の一角を黒い影が覆っていた。
最初は雲だと思った。
だが直ぐに気付く。
それは黒煙――火災が発生しているのだと認識した瞬間、パルムは焦燥に駆られた。
黒煙の指し示す方向、それはエリーの家がある方角だったからだ。
エルムナード大通りには既に大勢の人だかりができていた。
一際背の高いパルムですら、先を見通すのに苦労する。
妖精たちは人混みに揉まれて目を回していた。
二重三重にもなった人垣の中を強引に分け入って先頭を目指す。
その頃にはもう、パルムの瞳には惨状が映っていて、思い通りに進めないことへの苛立ちから「退いてくれよ!」と叫んでいた。
白煉瓦造りの家が赤く。
否、赤黒く染まって見えた。
天を突くような炎と黒煙が混在し、柱のような渦を形成している。
熱風が肌を刺し、火傷のような皮膚感覚を想起させる。
集まった人たちも口に手を当てて息を呑んでいた。
喧騒の中、時折怒号のようなものが聞こえる。
「おい! 手前来ていたのか!」
棒立ちのパルムの背中を誰かが叩いた。
ヘクターだった。彼は麻でできた袖のない服を着て、肩には大きな槌を背負って立っていた。
「ヘクター......どうして此処に......」
「応援だよ応援。火事の際には周囲に被害が広がらないように周りの建物を間引く手筈になっているだろうが。これだけ火の勢いが強いと近付くのもやっとだがな。それよりどうして手前が来ているんだよ。まさか野次馬か? だったらさっさと離れて――」
「エリーの家なんだ」
パルムは信じられない、信じたくないと云った風に呟いた。
今朝、エリーと一緒に訪れた際に見た純白で純美な、中を拝見するまでもなく容易に想像できる、あの清潔感を醸し出していた家。それが今、酷く蹂躙されている。
出会ったばかりだった――美しい家との出会いは早々あるものではなく、だからこそ尊く、だからこそ尊重しなければならないことなのに。
尊重して、大事にする。
家は個人が持てる最後の拠り処な筈なのだ。
それなのにどうしてこんなことになるんだ。
胸が痛み、喉が詰まったように、息が上手くできない。
「......おい。待てよ。それじゃあその子は無事なのか?」
そうか。
そうだ。
そうだった。
てっきりもう避難しているものとばかり思っていた。
パルムは俯きかけていた顔を跳ね上げ周囲を見渡した。警備兵も群衆も、大人も子供も、余す処なく見逃すことなく、探して捜して――。
もしかしたら、何処か人混みに紛れているのかもしれないと、
しかしエリーの姿は何処にもなかった。
「居ない。――まだ中に居るのか!?」
パルムが堰を切ったように駆け出そうとする。
その背中をヘクターが掴む。
「おい! 手前まさか! 中に這入ろうって云うんじゃないだろうな!」
「離せよ! エリーがまだ中に居るかもしれないだろ!」
「馬鹿か手前! あの猛火の中、どうやって中に這入るってんだ。それにその子供が何処に居るか何て判る訳ないだろう。――一度も中に這入ったこと無いと云っていたじゃないか」
「判るよ!」
そう。
確かに中に這入ったことはない。
でも――俺には判る。
ヘクターの腕を振り払い、パルムは駆け出した。
「パルム!」
ヘクターの悲痛な叫びを背に、パルムはこう云った。
「二階だ! 南側の二階、向かって左側だ! 其処がエリーの部屋だ!」
云って、警備兵を振り払い、門扉を抜け、飛び散る炎をかいくぐり、パルムは火中、否――家中へ飛び込んだ。
玄関だった処に立ち、ざっと見える範囲を見渡す。火の勢いが強い所為でかなりの部分が不明瞭だけれど、それでもパルムは思った。
――想像通りだ。
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下。
左手には二つの引き戸。
突き当たりに便所、左に曲がって風呂。
右手の扉は食卓兼台所。
正面の階段を上がれば二階に行ける筈だ。
火災が何処から発生しているのか、ここまで広がってしまっていては鎮火して検証するまでは判らない。
幸いにして階段までの廊下は火勢で閉ざされてはいない。
階段を駆け上がろうとすると、二階の天井から激しい音がして、真っ赤に焼けた木片がパルムの頭上に降り注いできた。
蹲る暇などなかった。
精々が頭を手で護るのが精一杯。
落下してきた大量の木片に身を埋めると、皮膚が焼ける匂いと刺したような痛みがして、恐慌じみた叫びと共にそれらを一気に払いのけた。
服に燻る火の粉を振り払い、漸く二階へ辿り着く。
煙が渦を巻いて廊下を席巻していた。
視界が全く取れない。
一体、何処に何があるのか、普通の人間、魔法建築士ならその場から一歩も動けないだろう。
だが――パルムは躊躇なく、淀みなく、足を踏み出した。
何処に何があるかなんて、そんなものは考えなくても判る。
無謀でも無茶でもない。
パルムには判る。
中を見なくても、中身を確認するまでもなく――外観から全ての構造を把握できる(・・・・・・・・・・・・・・・)パルムならではの荒業だった。
「エリー! 居たら返事をしてくれ! ――うっ、ごふっ」
思い切り叫んだら、熱風で喉が焼けるかと思う程に痛かった。
暫く待っても返事はなかった。
居なければ良いと思った。
そうならどれだけ救われるか、自分がこのまま火に巻かれても良いとさえ、思えてしまう程に。
兎に角も歩き出す。
確認しなければ安堵もできない。
黒煙の中を、目視できる範囲の五つの扉を無視して、バルコニーの手前を右手に曲がる――階段から隠れるようにして、正面に扉が現れる。
そこがエリーの部屋だと確認せずに確信して、パルムは扉を開けた。
部屋は六畳一間の板間だった。
熱と煙が部屋に充満していている。
奧のベッドに人影――エリーの姿が見えた。
「エリー!! しっかりしろ!」
「......」
意識を失ったまま、ぐったりとしているエリー。
抱き抱えてみても反応はなく、熱でうなされたように――実際に死ぬ程、冗談抜きで熱い――額に汗して呻いているだけだ。
このままだと危険だと云うことは一目で判った。
直ぐにでも外に出さないといけない。エリーを抱いて部屋から出ようと振り返った。
しかしこの瞬間――。
――天井が崩落した。
粉塵と。
黒煙と。
火炎と。
熱波が。
同時にパルムを襲う。
胸に抱いたエリーを庇うようにうずくまった。
背中を叩きつける木材の堅い感触と、それ以上に息ができない息苦しさ。
服が焦げ、皮膚が焼ける感覚がはっきりと判る。
ずぶずぶと、煤けていく肌の匂いとはこんなにも臭いものか。
人間の丸焼きなんて洒落にならない。
自分だけならと――そこでかっと目を開いた。
自分の腕を掴むエリーの姿を見て。
パルムは我を忘れて、吠えた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」
エリーだけは。
彼女だけは助ける。
まだ出会って一日しか経っていないけれど、まだ少ししか会話もしていないけれど――まだ話していないことが沢山あるのだ。
何が好きで何が嫌いで何を見て何を感じて何を思って何を考えて何を信じて何を怖がって、そんな些細なこと全て、彼女のこと全てを教えて貰っていない。
生きて欲しい。
否、生きなければならない。
子供とはそういうものだ。
無条件で、無自覚で、でも全てに意味がある。
可能性がある。
こんなことで終わっていい筈がない。
だから、終わらせてたまるものか。
「ヘクターっ!」
あらん限りの声を振り絞った。
それに呼応した――ようにパルムには思えた。
エリーの部屋の外壁が爆散した。
外側から内側へ、粉々になった壁面の向こう側から。
「うるせえんだよ手前は! でかい声でぎゃあぎゃあ騒ぐな! この馬鹿!」
大槌を携えたヘクターが赤黒い顔で這入ってきた。
わざわざ壁を破壊した理由――窓枠が既に熱で焼け、硝子も熱風で弾けている所為だろう。
周囲に散らばる硝子がそれを証明している。
外壁を壊すと云うのはヘクターにしても苦肉の策だったのかもしれない。
下手をすれば二階だけでなく一階にも被害が出る可能性がある。
踏ん切りがつかなかったに違いない。
だからこそ、パルムは彼を呼んだ。
そこに居ることを前提に、彼に伝えたのだ。
大丈夫だと。
「さすがヘクター。絶妙のタイミングだったよ」




