エリーとパトラ
※※※
――三年前。
これはエリーから聞いた話である。
理由ははっきりと覚えていないと、エリーは云った。
兎に角もその日、彼女は朝から自宅を抜け出し、エルムナード大通りをひたすら、刻には人にぶつかりながら、ソルティオの北――ソルティオ城を横目に北の門から街を抜けたそうだ。
当時五歳の子供がどうして五Kもの距離を走れたのか、北の門に常駐している門兵の目をどうやって盗んだのか、色々と不思議ではあるが、当のエリーが覚えていないと云うのだから、これはもう聞いても仕方がないだろう。
頬に当たる向かい風は強く、彼女の足を鈍らせる。
一面に広がるライ麦畑を両脇に見据え、街道はうねるようにして続いている。
何処まで行けるのか。
そんな期待に胸を躍らせたエリー、しかして彼女はそのまま街道をたったかとっとこ真っ直ぐ進み、何時の間にか、今では誰も寄りつかなくなった【妖精の森】に足を踏み入れていた――否、正確には森の入口で迷子になったと云った方が適切だろう。
妖精の森には文字通りの【迷いの呪文】が妖精種族の手によって施されていて――それは方角や距離は勿論、目眩や吐き気と云った身体的被害まで起こさせる、迂闊に近付けばそのまま何日も昏倒する程に強力なものだ。
妖精の森は余所者を排斥し、刻には能動的積極的に除外する。
当然、エリーはその場から一歩も動けなくなった。
街道からそう離れていない場所にも関わらず、妖精の森の前を通る者は誰一人居なかった。
木の幹に背中を預けたままへたり込んでいると何処からともなく獣の鳴き声が聞こえてきて怖くて仕方なかったと云う。
しかし立ち上がることもままならず、身体を震わせていたらしい。
次第に周囲の景色も薄暗くなっていき、遠くに見える夕日も終いには山の稜線の陰に隠れてしまったのだそうだ。
真っ暗になった世界でエリーは一人泣いていた。
ぐずぐずと。
めそめそと。
しくしくと。
泣いていた。
その内、彼女は痛みと吐き気と恐怖と、それから疲れから眠ってしまった。
五歳児の体力からすれば限界だったのだろう。
一体どれ位眠っていたのか判らないが、ふと目を開けると、何やら身体の右側が暖かかったと云う。
自分の隣に何か――毛むくじゃらな何かが寄り添っている。
最初は驚いて声を上げた。
それは。
自分と同じ位の大きさをした――緑色をした丸いふわふわとした生き物だった。
エリーは必死に這って逃げようとしたけれど、それは何時までも後ろを付いて離れようとしない。
只、不思議と危険だとは思わなかったと云う。
当初は驚いたエリーだったが、暫くするとその生き物にも慣れてきて、暗がりの中、それと向かい合ったそうだ。
語りかけても反応はなく、只、自分が見られていると云う感覚だけがあった。
どう云うつもりか、そんなような言葉が聞こえてきたと云う。
聞こえてきた――否、響いたと云ったほうが正しいような、頭の中に直接語りかけられたような、そんな気配だった。
意味が判らないとエリーは云った。
相変わらず毛むくじゃらから返事はなかったが、やはり頭の片隅で言葉にならない言葉が響く。
そうして噛み合わない会話を続けている内、周囲に濃厚な獣の匂いが充満していることにエリーは気が付いた。
何?
鼻を突く。
この臭くて臭くて、気持ち悪くて。
動物が垂らす無遠慮な涎のような。
昏くて、喰らいたくて、エリーを狙って集まってきた。
闇の奥で光る目、目、目。
野犬の群れ。
エリーは悲鳴を上げた。
このままだと食べられる。そう思い、そしてその現実は直ぐ目の前に迫っていると、彼女が覚悟した瞬間――。
音が。
けたたましい音が。
幾重にも連なり。
鳴り響いた。
まるで教会の鐘の音を間近で聞いてしまった刻のような、耳を塞ぎたくなる――元に彼女は耳を塞いだと云う――程の大きな音だったと云う。
暗闇の中、野犬の群れが散り散りになっていくのが判った。
明らかに先程の音に反応し、逃走を図ったようだった。
エリーは音の出所である――緑色の毛むくじゃらを見たけれど、変わった様子はなく、一定の距離を保ったままそこに居たので、彼女は恐る恐る傍に寄ったと云う。
毛むくじゃらに触れると、先程よりも暖かく感じられ、彼女は安堵した。
抱き締めた。
それはもう力一杯抱き締めた。
弾力のある肌と温もり。
恐らくだけれど、眠っていた刻、この生き物はずっと傍にいて私を護ってくれていたのだと、エリーはそう思った。
毛むくじゃらは嫌がる素振りを見せず、ずっと抱き締められたまま、彼女が落ち着くまで動かなかったと云う。
それからエリーと毛むくじゃらは暫く会話らしき何かをしたと、そう彼女は話した。
厳密には会話とは云えない、エリーがひたすら一方的に話すだけであったと推察されるのだが、そのお陰かどうか判らないけれど、毛むくじゃらは彼女を信用したらしい。
意思疎通と云う観点から云えば、それは確かに成功したのだ。
エリーは帰りたくても帰れないと、そんなことを話した。
すると毛むくじゃらは頭――かどうか判らないが身体を曲げ、彼女の下に潜り込むと、そのまま背中へと誘導した。
ふわふわの毛はエリーを包み込むような、暖かくて優しい匂いがして、天日干ししたお布団のようだったとエリーは云った。
そして彼女を乗せた毛むくじゃらは重さを感じさせない足取りでゆっくりと歩き出した。
たったかとっとこ、今朝、エリーが駆けてきた刻と似たような速度で。
毛むくじゃらはエリーを街の周辺まで送り届けてくれたのだ。
エリーを地面に降ろし、背中を向けた毛むくじゃら。
彼女は「待って!」と叫ぶ。
お願い! 一緒に居て!
エリーは抱きつき――抱きついて。
離さなかった。
離したくなかった。
家を抜け出した刻と同じ。
理由は覚えていないと、エリーは云った。
只、傍に居て欲しいと願った。
渇望とか熱望とか切望とか――そんな気持ちだった。
而して毛むくじゃらがそれを受け入れたのかどうか定かではないけれど、毛むくじゃらはエリーと一緒に自宅まで付いてきたと云う。
翌日、エリーは毛むくじゃらにパトラと名付けた。
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