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夜境捜査録 噂が現実になる夜  作者: 鈴木 明
第一章 『後ろ連れ』
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第一章 第一話 『帰らない少女』

十一月に入り、東京は夜になると急に冷え込むようになっていた。午後十一時四十分、住宅街の外れにある細い坂道で、一本のスマートフォンが見つかった。画面にはひびが入り、透明なケースの隙間には濡れた落ち葉が挟まっている。通報したのは近所の会社員で、帰宅途中に歩道脇の植え込みから短い通知音が聞こえたという。持ち主は十七歳の高校二年生、相沢美緒。家族から行方不明の通報が入ったのは、その十分ほど前だった。


 久世遼一が現場へ着いた時には、周囲の街灯が雨上がりの路面を白く照らしていた。数週間前まで東都民俗文化資料館の事件を追っていたことが遠い出来事のように思えるほど、この場所には目立つものがない。古い二階建て住宅、閉まったクリーニング店、細い電柱、坂の下へ続く都道。人が忽然と消えるには、あまりにも普通の場所だった。


「家まで、あと六百メートル」


 白峰紗月が地図を確認しながら言った。紫黒の髪が街灯を受け、毛先だけに淡い紫の艶が浮かんでいる。


「学校からは?」


「駅までは友達と一緒。二十二時五十八分の改札映像に一人で出てる。そこから徒歩十五分くらい」


「寄り道は」


「今のところなし。コンビニにも入ってない」


 久世は植え込みの位置へ視線を移した。スマートフォンは道路へ投げ捨てられたようには見えず、歩道から少し奥へ落ちているだけだった。急いで走っている途中に手から滑れば届きそうな距離でもある。周辺には血痕もなく、争った痕跡も今のところ見つかっていない。


「事故なら本人がいるはず」


「誘拐なら、ここまで痕跡がないのは少し綺麗すぎる」


「綺麗だから異常とは限らない」


「またその顔してる」


「どの顔だ」


「証拠が少なすぎて機嫌悪い顔」


 久世は返事をせず、鑑識がスマートフォンを回収するのを見送った。


 相沢美緒の母親への聞き取りは、日付が変わってから始まった。美緒は普段なら遅くても二十三時二十分頃には帰宅する。部活動はしておらず、その日は放課後に友人と駅前で勉強していた。門限を破ることはほとんどなく、家族との大きなトラブルもない。交際相手はいないと母親は言ったが、そこは本人の友人関係を確認しなければ断定できない。母親は何度も「知らない人についていくような子じゃありません」と繰り返した。


「知らない人でなければ?」


 久世が聞くと、母親は一瞬言葉を失った。


「遼一」


 紗月の低い声が入る。


「可能性の確認です」


 久世はそこで少しだけ言葉を柔らかくした。


「最近、誰かを怖がっている様子はありませんでしたか。知人でも、学校の人間でも構いません」


 母親はしばらく考えたあと、首を振った。ただ、三日前、美緒が夕食中に「夜道って、後ろを気にし始めると怖いよね」と言ったことだけを思い出した。冗談めいた口調だったため、母親も「スマホばかり見て歩く方が危ない」と返したという。


 翌朝、美緒のスマートフォンから削除されていないメッセージ履歴が復元された。最後にやり取りしていた相手は、同じ高校の友人・高瀬奈々だった。二人の会話は二十三時十一分から始まっている。


『いま帰ってる』


『寒い』


『駅から一人?』


『うん』


 そこまでは普通だったが、二十三時十四分、美緒から送られた文面が変わった。


『なんか後ろに人いるかも』


 奈々はすぐに、


『男?』


と返している。


『わかんない』


『さっきから足音する』


『抜かしてもらえば?』


『止まった』


 その一行のあと、約三十秒の空白があり、続いて美緒はこう送っていた。


『私が止まったら向こうも止まった』


 紗月は画面をスクロールする指を止めた。


「この時点で奈々さんは電話しようとしてる」


「発信記録は?」


「二十三時十六分。美緒さん側が拒否してる」


 その直後に美緒から送られた文面は短かった。


『電話やめて』


『音出したくない』


『また歩いてる』


 さらに一分ほどして、


『またついてくる』


と続く。奈々は警察へ連絡するよう促し、走って人通りのある道へ出ろとも送っていた。しかし美緒は、


『走ったら向こうも走りそう』


と返した。


 二十三時十九分、美緒はさらに一文を送っている。


『名前呼ばれた』


 久世が画面へ目を落とした。


『誰に』


『知らない』


『声は?』


『聞いたことある気もする』


 最後の文字列には、一度打ち直された形跡があった。


『後ろ見たくない』


 その後、メッセージは途切れている。


「いたずらの可能性は」


 紗月が聞いた。


「ある。知り合いが後ろから脅した可能性も、実際にストーカーがいた可能性もある」


「本人が自分で演出した可能性は?」


「失踪まで含めると手間が大きい。除外はしない」


 久世は画面を閉じた。


 奈々への聞き取りでは、美緒が最近「妙な噂」を気にしていたことが分かった。ただし奈々自身は詳しく知らないと言い、美緒が誰かに追われているとは考えていなかったらしい。昨夜も最初は友人同士の軽い怖がらせだと思い、途中から本気で危険だと感じた。最後のメッセージのあと何度電話しても繋がらず、奈々が美緒の母親へ連絡したことで失踪が判明している。


「妙な噂って?」


 紗月が尋ねると、奈々は口を開きかけてから、教室の外へ視線を向けた。


「……たぶん、関係ないです」


「関係あるかどうかを決めるのは、聞いてからにする」


 久世の言葉に、奈々は少し怯えた顔をした。


「遼一、言い方」


「普通だろ」


「あなたの普通は時々圧が強いの」


 奈々は二人を見比べ、それでも結局、「学校で最近流行ってる話」とだけ答えた。名前について尋ねると、なぜかそこで黙り込んだため、紗月は追及を止めた。


 午後、鑑識からスマートフォンの音声データについて連絡が入った。美緒は失踪直前、メッセージアプリではなく端末の録音機能を起動していた。録音時間は一分四十七秒。誰かに聞かせるためだったのか、自分で確認するためだったのかは分からない。


 久世と紗月は署内の小さな確認室で音声を再生した。最初に聞こえたのは美緒の荒い呼吸で、その下に一定の間隔で靴底が舗装路を叩く音がある。コツ、コツ、コツ。一人分の足音が続き、その少し後ろから、もう一つの足音が同じように返ってくる。コツ、コツ、コツ。二つの音は完全には重ならず、後ろの足音は美緒の足音よりほんのわずかに遅れていた。


 紗月が再生画面を見る。


「二人いる」


「そう聞こえる」


 久世はイヤホンを片耳へ押し込んだ。録音開始から二十二秒ほどで美緒の足音が止まり、その半拍ほど後に、後ろの足音も止まった。風が電線を鳴らす音だけが残り、十秒ほどの静寂のあと、美緒が再び歩き始める。すると一歩遅れて、後ろの足音もまた動き出した。


 紗月の表情から、聞き取りの時に残っていた柔らかさが消えた。久世は何も言わず音声を最初まで戻し、もう一度再生する。二度目も同じだった。三度目も、後ろの足音は美緒が動く時だけ動き、彼女が止まるたびに遅れて止まった。


 録音終了まで十五秒ほどになったところで、ごく小さく、美緒が息を呑む音が入った。その直後、遠くからとも耳元からとも判断できない位置で、声がした。


『……美緒』


 紗月が再生を止めると、確認室には機器の低い動作音だけが残った。


「知り合いの声に聞こえる?」


「この音質じゃ断定できない」


「でも名前は聞こえる」


「ああ」


 久世は波形を見つめた。声の正体も、二人目の足音も、まだ何一つ証明されていない。誰かが美緒の後ろを歩いていた。それだけなら現実的だ。知人かもしれない。悪意ある人間かもしれない。録音が加工されている可能性さえ残っている。ただ、三度聞いても一つだけ引っかかる点があった。後ろの足音は美緒の歩幅へ合わせているのではなく、美緒が一歩踏み出した、その後にだけ必ず一歩返している。まるで、自分から歩き方を持っていないように。


 久世は音声を保存し、立ち上がった。


「学校へ戻る」


「奈々さんが言いかけた噂?」


「ああ。まず、何を怖がってたのか全部聞く」


 紗月も立ち上がった。美緒の行方を探すために必要なのは、怪談を信じることではない。彼女が何を恐れ、誰からその恐怖を教えられ、なぜ振り返ることをあれほど恐れていたのかを知ることだった。机の上では停止した波形が一本の線になっている。そこに記録されていたのは、一人で帰宅していた少女の足音と、その一歩後ろから返され続けた、もう一人分の足音だった。

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