第八話 『夢の向こう』
真壁宗一郎の逮捕から二日後、東都民俗文化資料館は一部業務を再開した。展示室にはまだ立入制限の札が残り、第二資料室の扉も閉じられたままだったが、廊下には職員の声が戻り始めている。水瀬史織は午前中、夫の机に残された私物を受け取りに来た。黒い手帳、予備の眼鏡、使いかけの鉛筆、家では見たことのない安いマグカップ。どれも、持ち主が死んだからといって急に特別なものへ変わるわけではない。それでも段ボール箱へ一つずつ収めるたび、直哉が二度と触れないという事実だけが重さを増していった。
「これも、ご主人のものです」
小野寺美咲が差し出したのは、古い資料を包むための薄い布だった。端に小さく「M」と油性ペンで書かれている。
「自分の名字の頭文字、わざわざ書く人だったんですね」
「私も何度も言いました。誰も盗らないって」
史織は布を受け取り、わずかに笑った。
「でも、直哉は『紛失した時に困る』って」
美咲の目が伏せられる。
「私、水瀬さんに謝れないままでした」
「最後に喧嘩したこと?」
「はい」
「たぶん、気にしてないと思います」
「どうして分かるんですか」
「家でも、怒ったことを翌朝まで覚えていられない人だったから」
言ってから、史織は自分の言葉に詰まった。翌朝。これから先、その言葉にはいつも直哉のいない朝が続く。美咲は何も言わず、箱の蓋を押さえるのを手伝った。
昼過ぎ、久世遼一と白峰紗月も資料館へ来た。事件そのものについて、史織へ新しく伝えることはほとんどない。真壁の供述と物証は一致し、盗難と偽造についても別件として調査が続く。十三秒の欠落だけは、技術担当が何度確認しても原因を特定できなかった。
「故障じゃないんですか」
史織が訊く。
「可能性はあります」
久世は答えた。
「でも、別系統の二つの記録が同じ十三秒だけ欠けた理由までは説明できてません」
「事件とは関係ない?」
「少なくとも、殺人には使われていない」
紗月が横から続ける。
「分からないものを、無理に事件へ入れなくてもいいと思います。今は」
最後の二文字に、史織は少しだけ視線を上げた。
「今は、ですか」
「あとで説明できる日が来るかもしれないから」
久世が紗月を見る。
「俺より楽観的だな」
「あなたが悲観的すぎるの」
「現実的と言ってくれ」
「却下」
史織は二人のやり取りを聞きながら、ほんの少しだけ息を緩めた。事件が終われば、刑事は去る。それが普通なのだろう。それでも、彼らが直哉を「死体」ではなく、最後まで何かを守ろうとした人間として扱ってくれたことだけは、忘れないと思った。
その夜、史織は一人で自宅へ戻った。玄関には直哉の靴がなく、台所には二つ並んでいたマグカップの片方だけが残っている。捨てることも、しまうこともできず、彼女は照明を消して寝室へ入った。
夢の中で、史織は資料館にいた。
ただし、廊下の先は自宅の台所へ繋がり、台所の窓を開けると夜のホームが伸びていた。発車案内には何も表示されていない。雨も降っていないのに、ホームの床だけが濡れている。少し先に直哉が立っていた。
「直哉」
呼ぶ。
彼は振り返らない。
史織は歩き出した。しかし距離が縮まらない。走っても、ホームの柱だけが後ろへ流れ、直哉は同じ場所に立ち続けている。
『死んだ人を、どうやって死んだ人だと決めるんだろうね』
男の声がした。
穏やかだった。近くにも遠くにも聞こえる。史織は辺りを見回したが、誰もいない。
『名前が残っていれば、その人は残っている?』
「誰ですか」
『記憶している人がいれば、生きているのと何が違う?』
「姿を見せて」
返事の代わりに、直哉が少しだけ遠くなった。
『忘れられたら、二度目に死ぬのかな』
史織の胸が強く痛んだ。
「やめて」
『君たちだけが知っていたことも、全部なくなる?』
その声はそこで、直哉がよく言っていた言葉を口にした。
『史織は砂糖を入れない。なのに疲れた日は、僕のカップから一口だけ盗む』
史織の足が止まった。
誰にも話していない。直哉と二人だけの、取るに足らない習慣だった。
「……あなた、誰なの」
『知りたい?』
ホームの照明が一つずつ消えていく。
『なら、覚えておくといい。人は、事実だけで世界を作っているわけじゃない。語られたことを信じ、信じたことを繰り返し、いつかそれを昔からあったものだと思う』
「直哉を戻せるの?」
声はすぐには答えなかった。
『戻る、という言葉が何を意味するか。それを知るところから始めればいい』
史織は直哉へ手を伸ばした。
『物語が、どうやって現実になるのかを学ぶんだ』
そこでホームが消えた。
史織は暗い寝室で目を覚ました。呼吸が浅く、頬が濡れている。時計は午前三時を少し過ぎていた。夢だった。そう言えば終わる。夫を失ったばかりの人間が、夫の声や記憶を材料に妙な夢を見ることなど、珍しくもない。
それでも眠れなかった。
史織は書斎へ行き、ノートパソコンを開いた。真っ白な文書を前にしばらく指を止め、それから新しいファイル名を入力する。
――都市伝承発生条件・仮説。
最初のページには、資料館で起きた十三秒の欠落について、確認できた事実だけを書いた。監視映像。温湿度記録。別系統。同時刻。殺人との直接的関連なし。
最後に一行だけ加える。
十三秒。原因不明。
プロローグを最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
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それでは、第一章でお会いしましょう!




