第七話 『残された人』
水瀬直哉の死亡から三日目、東都民俗文化資料館の第二資料室には、事件当夜とほぼ同じ位置へ可動式の梯子が戻されていた。もちろん遺体はない。床に残っていた血痕も処理され、棚には鑑識用の番号札だけが残っている。それでも久世遼一には、最初の夜より部屋の形がよく見えていた。
「梯子から落ちた傷じゃない」
白峰紗月が鑑定書を閉じた。
「ああ。転落だけで説明するには、後頭部の損傷位置が低すぎる」
直哉の致命傷は、床へ直接打ちつけたものではなかった。第二資料室中央の作業台、その角とほぼ同じ高さに一致する。さらに床を再検査した結果、作業台の脚元から微量の血液反応が見つかった。清掃された痕跡があり、直哉の遺体が発見された場所とは離れている。
「最初に倒れたのは、こっち」
紗月が作業台を見る。
「そのあと梯子のそばへ運ばれた」
「事故に見せるためにな」
久世は事件当夜の動きを頭の中で組み直した。直哉はその日、真壁宗一郎を問いただすつもりだった。盗まれた資料、偽造された来歴、書き換えられた目録。説明がなければ外部監査へ提出すると、自分の手で書き残している。真壁は午後八時三十二分に正面から退館した。しかし旧搬入口の機械鍵を使えば、電子記録を残さず収蔵区画へ戻ることができた。
そして、鍵には新しい使用痕があった。
午後、真壁は再び応接室へ呼ばれた。乱れのないスーツも、落ち着いた声も変わらない。ただ、机の上に並べられた資料を見た時だけ、その視線が一瞬止まった。
「ずいぶん大げさですね」
「そうですか?」
久世が訊く。
「私は管理上の判断をしただけです。目録の整理についても、現場の混乱を減らすためで――」
「久我山さんへ流れた資料の代金が、あなたの口座へ入っています」
真壁の口が止まる。
「それに、『北遠地方異聞拾遺』には新しい加筆がある。古い資料の一部を使って、存在しなかった来歴を作った。水瀬さんはそれを見つけた」
「だから私が殺したと?」
「まだそこまでは言ってません」
久世は一枚の写真を置いた。第二資料室の作業台、その脚元に示された血液反応。
「水瀬さんが最初に倒れたのは梯子のそばじゃない。作業台の横です。あなたは事故に見せるため、遺体と梯子を動かした」
「想像でしょう」
「なら、もう一つ」
紗月が口を開いた。
「水瀬さんの右手に残っていた灰色の繊維。あなたが事件当夜に着ていた上着と同じ種類でした。珍しい素材ではありません。これだけなら証拠には弱い。でも、水瀬さんは倒れる直前、誰かの服を掴んだ可能性が高い」
真壁は黙った。
「それから、あなたは青い麻紐の採集帳を数年前に見たと言った」
紗月の声は静かだった。
「でも、あれが正式に箱から出されたのは三週間前です。しかも、直哉さんが不正に気づいた後、すぐ所在不明になった。あなたは正規の手順では知れないことを知っていた」
「……それで?」
「水瀬さんと会いましたね。あの夜」
真壁の目が、初めて二人から外れた。
長い沈黙の後、真壁は椅子の背へ身体を預けた。
「殺すつもりはなかった」
紗月の表情から、わずかな柔らかさが消えた。
「何があったんですか」
「水瀬君が、全部持ってきたんです。旧目録も、売却先も。館長へ出すと言った。私が何年かけてこの資料館を立て直したと思っている、と言っても……聞かなかった」
声はまだ平静だった。ただ、言葉だけが少しずつ速くなる。
「言い争いになった。彼が封筒を持って出ようとしたから、止めた。腕を掴んで……振り払われた。それで、押した。ほんの一度です」
直哉は後ろへよろめき、作業台の角へ後頭部を強く打ちつけた。呼びかけても反応せず、床に血が広がった。救急車を呼べば、不正もすべて明るみに出る。真壁はそう考えたという。
「だから梯子まで運んだ」
久世が言った。
「……はい」
「旧搬入口から戻ったのも?」
「はい」
「清掃したのも、資料を散らしたのも?」
真壁は目を閉じた。
「私です」
逮捕手続きが始まった頃、紗月は廊下の端に立つ水瀬史織を見つけた。史織は真壁が連れて行かれる姿を見ても、追いかけも怒鳴りもしなかった。ただ、扉が閉じたあとで小さく尋ねた。
「事故じゃなかったんですね」
「はい」
紗月が答える。
「直哉は、最後まで仕事をしてたんですか」
「自分が見つけたことを、外へ出そうとしていました」
史織はしばらく俯き、それから笑うような、泣くような息を吐いた。
「そういう人です。面倒なくらい、そういう人でした」
久世は少し離れた場所から二人を見ていた。犯人が分かっても、死者は戻らない。事件を解くことと、失われたものを取り戻すことは同じではない。そんな当たり前のことを、残された人間だけが毎回引き受ける。
その夜、捜査資料を整理していた久世は、警備記録の一枚で手を止めた。
二十二時十三分七秒から、二十二時十三分二十秒。
真壁が直哉を押したのは、それより前だった。本人の供述と館内の記録を照合しても、十三秒の欠落は殺人にも、偽装にも使われていない。
人間の事件は終わった。
それでも、十三秒だけが残っていた。
読んでくださり、ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。




