第一章 第二話 『振り返ってはいけない』
翌日の放課後、久世遼一と白峰紗月は再び相沢美緒の高校を訪れていた。校舎はどこにでもある都立高校と大きく変わらない。昇降口には濡れた傘の跡が残り、廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響いている。それでも、美緒が失踪したという事実が広まったせいか、二人が通るたびに視線が集まり、会話がわずかに途切れた。誰もが何かを知っているようで、誰も自分から話したがらない。
高瀬奈々は前日より落ち着いていたが、目の下には薄い隈が残っていた。久世が「昨日言いかけた噂について、最初から聞きたい」と切り出すと、奈々は机の端を指でなぞりながらしばらく黙った。
「……後ろ連れ、です」
「うしろづれ?」
紗月が聞き返すと、奈々は小さく頷いた。
「はい。そう呼ばれてます。夜に一人で歩いてると、後ろから足音がついてくるって」
「誰がそう呼び始めた?」
「分かりません」
答えは即答に近かった。奈々によれば、学校ではここ数週間、帰宅途中に聞こえる足音の噂が急速に広がっていた。夜、一人で歩いていると後ろに誰かがついてくる。振り返ってはいけない。名前を呼ばれても返事をしてはいけない。そこまでは多くの生徒が同じように話す。ただ、その先になると内容はばらばらだった。
「何時に出る?」
「え?」
「後ろ連れが出る時間」
「私は、十二時過ぎって聞きました」
奈々が答えた直後、同席していた別の女子生徒が首を振った。
「九時からじゃないの?」
「九時?」
「だって、十時前に見たって人いるし」
「誰?」
「二年の……たぶん、違うクラスの子」
「名前は?」
「そこまでは……」
久世はメモを取る手を止めなかった。時間だけでなく、追跡が終わる条件にも違いがあった。七分間逃げ切れば消えるという生徒もいれば、家へ着くまで絶対についてくるという生徒もいる。大通りへ出れば消える、コンビニへ入れば消える、明るい場所でも消えない。走ってはいけないという話もあれば、走らなければ捕まるという話もあった。
「それ、同じ噂なの?」
紗月が尋ねると、三人の生徒は顔を見合わせた。
「同じだと思います」
「どうして?」
「名前が同じだから……」
返ってきた理由はそれだけだった。久世は続けて、美緒がいつ頃この噂を知ったのか奈々へ尋ねた。奈々は「先月くらい」と答えたが、隣の生徒は「もっと前からあった」と言い、さらに別の生徒は「去年も聞いたことがある気がする」と口にした。
「気がする、って?」
「はっきり覚えてないです。でも、前からあったと思います」
「誰から聞いた?」
「友達……だったかな」
「その友達は?」
「分かりません」
久世が顔を上げると、少女は責められたと思ったのか肩を縮めた。紗月が横から口を挟む。
「思い出せないなら、無理に作らなくていいよ。分からないことは分からないままで大丈夫」
少女は小さく頷き、その後は無理に記憶を辿ろうとはしなかった。
それから二人は学年を分けて十数人へ話を聞いたが、結果は似たようなものだった。名前だけは一致する。後ろ連れ。だが、出現時刻も、逃げ方も、姿も、終わり方も揃わない。ある男子生徒は「振り返った瞬間に消える」と言い、別の女子生徒は「振り返ったら連れていかれる」と言った。後者がどこからその話を聞いたのか尋ねると、「みんな知ってる」としか答えられない。
「“みんな”って便利だな」
廊下へ出たところで久世が言うと、紗月は手元のメモをめくった。
「あなたの“可能性はある”と同じくらい便利かも」
「違う。可能性は可能性だ」
「はいはい。でも、変だね。ここまでルールが違うのに、誰も別の噂だとは思ってない」
「名前が同じだからだろう」
「逆かもしれない」
「何が?」
「同じ名前で呼んでるから、違う話でも同じものだと思ってる」
久世は返事をせず、その言葉を一度頭の中で転がした。
午後四時を過ぎる頃には、噂を最初に広めた可能性のある人物として数人の名前が挙がっていた。しかし、その全員に話を聞いても「自分は別の人から聞いた」と答える。誰かを辿れば、さらに別の誰かが出てくる。SNSの短い投稿も確認したが、どれも既に噂が存在する前提で書かれており、「これ知ってる?」や「昨日また出たらしい」といった内容ばかりだった。最初の投稿者らしい人物も、最初の体験者らしい人物も見つからない。それなのに、噂だけは最初から完成していたように広がっている。
「口伝で始まったなら、記録が残らないのは普通じゃない?」
紗月が言うと、久世は校舎の窓からグラウンドを見下ろした。陸上部の生徒がトラックを走り、野球部の掛け声が夕方の空へ伸びている。日常そのものの景色だった。
「普通だ。だから今はそれ以上じゃない」
「でも気になってる」
「ああ。美緒さんが失踪した夜、彼女はこの噂を知ってた。少なくとも『振り返るな』『名前を呼ばれても反応するな』に近い部分は知っていた可能性が高い」
「だから、ただのストーカー相手でも行動が変わったかもしれない」
「そういうことだ。噂を信じていたせいで、助けを呼ぶ判断が遅れた可能性もある」
現時点で重要なのは、後ろ連れが実在するかどうかではない。美緒がそれを実在するものとして恐れ、その恐怖が失踪直前の行動へ影響した可能性があることだった。
帰り際、昇降口で一年生らしい男子生徒が二人の前を通り過ぎ、友人へ小声で話しているのが聞こえた。
「だから、十一時を過ぎたら一人で帰るなって」
久世が足を止める。
「今、何時って言った?」
男子生徒は驚いて振り返った。
「え……十一時です」
「どうして十一時なんだ?」
「そういうルールだから」
「誰に聞いた?」
少年は困ったように眉を寄せた。
「誰って……昔からそうですよ」
久世と紗月は同時に彼を見た。
「昔から?」
「はい。兄貴も知ってたと思います。三年前に卒業してるけど、その頃からあったって」
「本人から聞いたのか?」
少年はそこで初めて迷い、視線を落とした。
「……たぶん。そうだったと思います」
久世は兄の名前だけを確認して、追及を止めた。今日一日で何度も聞いた「前から」「昔から」「みんな知っている」という言葉のどれにも、確かな最初の一人がいない。誰かに辿り着こうとするたび、その先にはまた別の誰かがいるだけだった。
校門の外へ出ると、夕方の道を生徒たちが次々と帰っていく。友人同士で笑いながら歩く者もいれば、一人でイヤホンをつけて坂を下る者もいる。その背中を見送りながら、久世は今日集めた証言を思い返した。時間も違う。逃げ方も違う。振り返った後に起きることさえ違う。それでも全員が、同じ名前を口にする――後ろ連れ。誰も始まりを知らない。それなのに、誰も新しい噂だとは思っていなかった。
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