第一章 第三話 『昔からあった噂』
翌日の午前、久世遼一と白峰紗月は、前日に話を聞いた一年生の兄・佐久間航平を訪ねていた。航平は三年前に同じ高校を卒業し、現在は都内の専門学校へ通っている。待ち合わせた喫茶店で「弟から刑事が来るって聞いて、何かやったのかと思いました」と苦笑したが、後ろ連れという名前を出した瞬間、その表情が止まった。
「……後ろ連れ?」
「弟さんは、あなたも高校時代から知っていたはずだと言ってる」
久世が答えると、航平は眉を寄せた。
「いや、知らないです。少なくとも、その名前は初めて聞きました」
「夜道で後ろから足音がついてくる。止まれば止まり、名前を呼ばれても振り返ってはいけない。似た話は?」
「学校の怪談なんていくらでもありましたけど、それは覚えてないですね」
紗月が弟の証言内容を簡潔に説明した。航平は最初こそ首を傾げていたが、「三年前からあったって兄貴が言ってた」と弟が話したことを聞くと、今度は露骨に困った顔をした。
「俺、そんなこと言ったかな……」
「言った記憶は?」
「ないです。でも、絶対言ってないって言われると……そこまで自信もないです。弟とは昔から怖い話とかするし」
「後ろ連れって名前を聞いて、懐かしい感じは?」
紗月が尋ねる。
「……変なんですけど、少しだけ。初めて聞いたはずなのに、知ってた気もする」
久世はそこで初めてペンを止めた。
「どっちなんだ」
「分かりません」
航平は自分でも苛立ったように額を押さえた。
「頭では知らないって思うんです。でも、名前だけ聞くと、昔どこかで聞いたような感じがする。夢で見たことを、昔の記憶と勘違いしてるみたいな」
店を出たあと、紗月は歩きながらメモを見返した。
「嘘をついてる感じはしなかった」
「俺もそう思う」
「弟さんは兄から聞いたと思ってる。兄は話した記憶がない。でも、名前には妙な既視感がある」
「だから記憶じゃなく、記録を見た方が早い」
二人はそのまま学校へ戻り、許可を得て過去の校内資料を確認した。生徒会の議事録、学校新聞、文化祭冊子、図書委員会の怪談特集、卒業文集。学校には毎年のように怪談や七不思議が残されており、古い体育館の階段、夜の音楽室、使われていない理科準備室など、時代ごとに内容が少しずつ変わっていた。しかし、後ろ連れという名前は一度も出てこない。
「三年前だけじゃない」
紗月が古い文化祭冊子を閉じた。
「五年前も十年前もないね」
「学校内で記録されるほど流行ってなかった可能性はある」
「また可能性」
「あるものはある」
次に確認したのは、学校周辺で起きた過去の事件だった。夜道での付きまとい、痴漢、軽犯罪、不審者情報。似た状況の記録はいくつか存在したが、被害者が「止まると足音も止まった」「名前を呼ばれた」「振り返ってはいけないと言われていた」と証言した事件は見つからなかった。地域掲示板の保存データや過去のSNS投稿を遡っても結果は同じだった。後ろ連れという語が確認できる最古の投稿は、わずか三週間前。その投稿でさえ説明はなく、既に知っている者へ向けたように「昨日、後ろ連れっぽいのいた」という短い一文だけだった。
「始まりがない」
紗月が言った。
「記録上はな」
「三週間前の投稿が最初なのに、その時点でもう説明がいらないくらい共有されてた」
「ああ。だから、その前は口伝だった可能性がある」
「でも、三年前に知ってたはずの人は知らない」
久世は画面を閉じた。記録がないことは、存在しなかった証拠にはならない。それでも「昔からあった」という証言が増えるほど、その昔へ辿るための痕跡が一つもないことは奇妙だった。
午後、二人は東都民俗文化資料館を訪れた。数週間前の事件以降、館内の一部はまだ整理中だったが、水瀬史織は研究室で二人を迎えた。喪服ではなく、落ち着いた灰色のカーディガンと白いブラウスを着ている。以前より少し痩せたように見えたが、机には既に資料が何冊も積まれていた。
「今度は殺人じゃないんですね」
「今のところは」
久世が答えると、史織は苦笑した。
「久世さんの『今のところ』、安心できないですね」
「私もそう思います」
紗月が横から言った。
後ろ連れについて説明すると、史織はすぐに既存の民俗資料と照合を始めた。後ろからついてくるもの、名前を呼ぶもの、振り返りを禁じるもの。それぞれに似た伝承は存在する。しかし、三つの特徴をまとめて「後ろ連れ」と呼ぶ既存資料は見つからない。史織は地方採集記録、近現代怪談集、都市伝説関連の索引まで確認したあと、椅子へ背を預けた。
「少なくとも、私が知っている範囲では既存の伝承ではありません」
「新しい噂?」
「その可能性は高いです。でも、新しいから珍しいわけではありません。都市伝説は毎年生まれますから」
「問題は、みんな昔から知ってると思ってること」
紗月が言った。
史織は少し考え、机の上のメモ用紙へ一本の線を引いた。
「噂には、実際の年齢と、語られる年齢があります。昨日生まれた話でも、『十年前からある』と言われれば、次に聞いた人は十年前からある話として受け取る。さらにその人が誰かへ話す時には、『昔からあるらしい』になる。出典を確認する人はほとんどいません」
「嘘でも古くなる」
「はい。でも、多くの場合はそこで終わります。曖昧な伝聞が積み重なって、なんとなく古い話に見えるだけです」
「今回は?」
久世が聞くと、史織はすぐには答えず、二人が持ち込んだ証言メモへ目を落とした。
「少し変ですね。『昔からあると聞いた』ではなく、『自分が昔から知っていた気がする』人がいる。そこは普通の伝聞だけでは説明しにくい」
久世は航平の言葉を思い出した。初めて聞いたはずなのに、知っていた気がする。夢の記憶を昔の出来事と取り違えたような感覚。
「人間の記憶は簡単に書き換わる」
「ええ。でも、だからこそ確認が必要です。個人の記憶が曖昧なだけなのか、複数人の記憶が同じ方向にずれているのかで、意味は変わります」
史織はそう言って、後ろ連れに関する証言を年代別に並べることを提案した。誰がいつ知ったと思っているのか。実際に確認できる最古の記録はいつか。ルールのどこが共通し、どこが後から増えているのか。久世が求めていたのも、まさにその整理だった。
資料館を出る頃には夕方になっていた。紗月は階段を下りながら、史織から借りた都市伝説資料のコピーを抱え直した。
「今のところ、一番古い証拠は三週間前」
「ああ」
「でも、三年前から知ってたと思ってる人がいる」
「そう思ってるだけかもしれない」
「全員が?」
久世は答えなかった。
翌日までに追加で確認した卒業生七人のうち、四人は後ろ連れを知らないと答えた。二人は「聞いたことがある気がする」と言いながら、いつ誰から聞いたかを思い出せなかった。そして残る一人は、五年前の在学中から知っていたと断言した。その卒業生が挙げた友人へ連絡すると、返ってきた答えは短かった。
「そんな話、した覚えないです」
久世は通話記録を閉じた。誰かが嘘をついているようには見えない。なのに、過去へ行けば行くほど証言だけが残り、その証言を支える人間も記録も消えていく。後ろ連れは、昔からあったという。ただし、その「昔」だけが、どこにも存在していなかった。
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