第一章 第四話 『もう一人の足音』
後ろ連れの記録を洗い直してから二日後、久世遼一と白峰紗月は、都内の総合病院にいた。面会相手は二年生の男子生徒・高梨優斗。三日前の夜、帰宅途中に道路脇で倒れているところを巡回中の警察官に保護され、軽い脱水と過呼吸で搬送された。外傷はほとんどなく、本人も「誰かに襲われたわけではない」と話しているが、精神的な動揺が強いため念のため経過観察が続いている。保護された場所は、相沢美緒のスマートフォンが見つかった坂道から二キロも離れていなかった。
病室へ入ると、優斗はベッドの上でスマートフォンを握っていた。顔色は悪くないが、ドアが開くたびに視線だけがそちらへ動く。
「高梨優斗君?」
「はい」
「昨日も警察には話したと思うけど、もう一度だけ確認したい。帰宅途中に何があった?」
久世が椅子へ座ると、優斗は少し迷ってから頷いた。
「最初は、普通に後ろから誰か来てると思ったんです。駅から家まで歩いてて、足音がして……でも、抜かしてこないから変だなって」
「どのくらい後ろ?」
「十メートルくらい……たぶん」
紗月が手元のメモへ視線を落とした。
「昨日の聞き取りでは、五メートルくらいって言ってる」
優斗は眉を寄せた。
「そうでしたっけ」
「覚えてない?」
「距離なんて、ちゃんと見てないです。振り返ってないから」
「じゃあ、十メートルっていうのは?」
「なんとなく……音の感じで」
紗月はそれ以上追及せず、続きを促した。優斗は一度水を飲み、足音が自分の歩調に合わせていたこと、試しに立ち止まったら後ろも止まったことを話した。そこまでは、これまで集めた証言とよく似ている。
「そのあと走った?」
「はい」
優斗は即答した。
久世が昨日の調書をめくる。
「昨日は『走ってない』って答えてる」
優斗の顔から血の気が少し引いた。
「……え?」
「歩く速度を上げただけだ、と」
「いや、走りました。絶対。怖くなって、角まで走って……」
言いながら、本人の声が弱くなる。
「角?」
「はい。コンビニのある角です」
「保護された道に、コンビニはない」
久世の言葉に優斗は黙り込み、やがて自信を失った声で「じゃあ……違う道だったかもしれない」と答えた。
紗月は久世を一度見てから、問い方を変えた。
「今思い出そうとしてる? それとも、思い出せるものを話してる?」
「どういう意味ですか」
「分からない部分を埋めようとしなくていい。昨日と違ってもいいから、今確実に覚えてるところだけ教えて」
優斗はしばらく黙っていた。窓の外で救急車のサイレンが遠く鳴り、やがて小さくなる。
「足音です」
「うん」
「止まったら、止まった。それは覚えてます。あと……走ったかどうかは、急に自信なくなりました」
「他には?」
「名前を呼ばれました」
久世の指が調書の上で止まった。
「誰の声だった?」
「母親です」
「昨日は、女の声としか言ってない」
優斗は今度こそ言葉を失った。
「でも、母さんだったと思います」
「家に確認した。君のお母さんはその時間、自宅にいた」
「分かってます」
「なら、どうして母親だと思った?」
「声が……そうだったから」
優斗は自分の手元へ視線を落とした。
「『優斗』って呼ばれて、すごく普通の声でした。怒ってるとか、泣いてるとかじゃなくて、家の中から呼ぶみたいな。だから一瞬、後ろに母さんがいると思った。でも、そんなわけないって分かって……」
「振り返った?」
「振り返ってません」
その答えだけは迷いがなかった。
「どうして?」
「だって、振り返ったら駄目だから」
久世は顔を上げた。
「誰にそう聞いた?」
「後ろ連れは、振り返ったら連れていかれるって」
「昨日は『振り返ると消える』って聞いたと言ってる」
病室の空気が一瞬止まり、優斗の呼吸が浅くなった。
「俺、そんなこと言いました?」
「調書には残ってる」
「でも……違う。振り返ったら連れていかれるんです。そういう話だったはずです」
「いつからそう知ってた?」
「前から」
「いつの前?」
優斗は答えられず、困惑したまま俯いた。
面会を終えて廊下へ出ると、紗月は自動販売機の前で立ち止まり、温かい缶コーヒーを二本買った。一本を久世へ渡す。
「珍しいな」
「何が?」
「砂糖入り」
「私のじゃない。あなたの」
「俺も無糖でいい」
「今日は黙って飲んで」
久世は缶を受け取りながら、優斗の調書を見返した。
「二回の聞き取りだけで、距離、走ったかどうか、声の正体、振り返った時に何が起きるかまで変わってる」
「でも、全部が変わってるわけじゃない」
「止まったら止まる。名前を呼ばれる。振り返らなかった。その三つは一致してる」
「あと、本人は嘘をついてる感じじゃない」
「ああ」
紗月は缶の蓋を開けた。
「話すたびに、噂の方へ記憶が寄っていってるように見えた」
「逆かもしれない。最初の聞き取りで曖昧だった記憶を、あとから思い出しただけかもしれない」
「それなら、ルールまで変わる?」
「人間の記憶はその程度には信用できない」
「史織さんも似たこと言ってたね」
「だから証言だけでは決めない」
病院を出た時には、日が沈み始めていた。二人は優斗が保護された道を確認するため、そのまま現場へ向かった。住宅街の外れを通る細い道路で、片側には低い塀、反対側には閉店した工場のフェンスが続いている。街灯はあるが間隔が広く、一本分離れるだけで人の顔は見えにくくなる。
久世は優斗の歩いた経路を地図と照合しながら進み、本人が話した「コンビニの角」が存在しないことをもう一度確認した。似た交差点は三百メートル先にあるが、そこまで行けば保護地点から大きく外れる。
「道まで混ざってる」
紗月が言う。
「記憶違いなら珍しくない」
「それ、今日何回目?」
「数えてない」
「私は三回目」
「暇だな」
「あなたが同じこと言うからでしょ」
現場確認を終えた頃には午後八時近くになっていた。久世は署へ戻って記録を整理すると言い、紗月は近くのコインパーキングへ停めた車を取りに向かった。駐車場までは徒歩五分ほど。大通りから一本入った道は人通りが少なく、雨こそ降っていなかったが、昼間より冷たい風が住宅の隙間を抜けていた。
紗月は最初、後ろの音を気に留めなかった。自分の革靴が舗装路を踏むたび、少し遅れてもう一つ音がする。住宅街なら誰かが同じ方向へ歩いていてもおかしくない。速度を少し落とし、先に行かせようとすると、後ろの足音も同じように遅くなった。
紗月は歩きながらショルダーバッグの中へ手を入れ、スマートフォンを掴んで画面を見ずにサイドボタンを押した。通話するほどではない。まだ、ただ後ろに誰かいるだけだ。歩幅を元へ戻して一歩踏み出すと、少し遅れて一歩。さらに進めば、また少し遅れて一歩。録音で聞いた音の間隔が、嫌でも頭へ浮かんだ。
次の街灯の下で立ち止まると、自分の靴音が消え、その半拍後、後ろの足音も止まった。風が植木の葉を擦る音だけが続く。紗月は振り返らなかった。恐怖に従ったわけではない。確認する方法を、自分で一つずつ選ぶためだった。スマートフォンの録音を起動し、そのまま再び歩き始めると、足音も戻った。
彼女が少し速くなれば、後ろも少し速くなる。ただし完全に同時ではない。常に、自分の一歩のあとへ返事のように一歩が続く。
駐車場の入口が見えたところで、前方から車のヘッドライトが曲がってきた。白い光が道路全体を照らし、紗月の影が長く後ろへ伸びる。その瞬間、後ろの足音が消えた。紗月は車が通り過ぎるまで待ち、それから初めて肩越しに道路を確認したが、塀の脇にも路地にも人影はない。振り返った時には、既に音が消えていた。それだけだった。
しばらく道路を見つめたあと、紗月は久世へ電話をかけた。
『どうした』
「今、駐車場に着いた」
『それで?』
「後ろから足音がついてきた」
電話の向こうが一瞬静かになった。
『人は』
「見てない。途中で止まったら、向こうも止まった」
『振り返ったか』
「最後だけ。音が消えてから」
『録音は』
「してる」
一秒ほど間を置いて、久世が答えた。
『戻れ。確認する』
「言われなくてもそのつもり」
通話を切り、紗月は車へ乗り込んだ。ドアを閉めてから録音画面を見る。三分十二秒。再生はまだしなかった。怖くなかったと言えば嘘になる。ただ、それ以上に気になっていることがあった。高梨優斗は話すたびに、自分の体験と噂の境界を失っていった。自分も同じものを聞いたのだとすれば、これから先、どこまでを自分の記憶として信用できるのか。
エンジンをかける前に、紗月は自分の手で短いメモを残した。
――足音。停止すると停止。再開すると再開。声なし。姿は未確認。
今覚えていることを、変わる前に。
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