第一章 第五話 『鏡の中の余分な影』
白峰紗月が昨夜残した録音は、翌朝になっても変わらなかった。署の会議室で再生すると、三分十二秒の音声には、彼女自身の足音とは別の音が確かに入っている。革靴が舗装路を踏む音。そのすぐあとに、少し遅れてもう一歩。紗月が歩みを緩めれば間隔も伸び、止まれば半拍遅れて止まり、再び歩き始めれば同じように戻ってくる。
「昨日聞いた時と同じ?」
久世遼一が尋ねる。
「同じ。少なくとも、私の記憶では」
紗月は昨夜自分で書いたメモを机へ置いた。
――足音。停止すると停止。再開すると再開。声なし。姿は未確認。
「録音と一致してる」
「今のところはな」
「その言い方、嫌いじゃないけど便利すぎない?」
「事実だから仕方ない」
久世は音声データを波形表示へ切り替えた。相沢美緒の録音ほど鮮明ではない。それでも、紗月の足音のあとに別の衝撃音が繰り返されていることは確認できた。人間が一定の距離からついてくるなら、歩幅やタイミングがずれるのは自然だ。しかし、この音は紗月が速度を変えるたびに遅れて同じ変化を繰り返している。
「誰かが後ろを歩いてただけなら?」
「一番普通の説明だ」
「反響は?」
「それもある」
「じゃあ、順番に潰そうか」
「最初からそのつもりだ」
午前中、二人は昨夜の道へ戻った。時間帯は違うが、道路幅や塀、フェンス、建物の位置は変わらない。紗月が歩いた区間を数回往復し、久世が距離を変えながら後ろを歩く。録音機器も同じ位置へ入れた。塀からの反響、フェンスの振動、排水溝の蓋、住宅の外階段。足音に似た音を返しそうな要素を一つずつ確認したが、昨夜の録音と同じ間隔で追随するものはなかった。
「音が返るなら、私が止まった瞬間には消えるよね」
「普通はな。半拍残る可能性はあるが、再開まで合わせる理由はない」
「じゃあ、誰かいた」
「いた可能性はまだ残る」
久世は道路脇の防犯カメラを見上げた。住宅の玄関と月極駐車場の入口に一台ずつあり、映像を確認すると、紗月が一人で歩いている姿は映っていた。彼女が立ち止まり、少し間を置いて再び歩く場面も残っている。ただし、後ろに人影はない。
「死角は?」
「ある。ここからここまで」
久世が画面上を指で示す。カメラは道路全体を覆っていない。塀沿いには映らない区間があり、二台のカメラの間にも空白がある。
「つまり、映ってないだけで誰かがいた可能性は消せない」
「そういうこと」
「でも、私が止まった場所は映ってる」
「ああ」
「後ろから歩いてくる人なら、数秒後にはどちらかのカメラへ入ってもよさそうだけど」
「その場で止まって、死角へ戻った可能性もある」
紗月は画面から久世へ視線を移した。
「あなた、意地でも怪異って言わないね」
「言葉を変えたところで証拠は増えない」
「否定してるわけじゃない?」
「否定する材料もない」
紗月は少しだけ笑った。
「それならいい」
「何が」
「疑うことと、最初から存在しないことにするのは違うから」
久世は返事をせず、もう一度映像を巻き戻した。
午後は、相沢美緒と高梨優斗の経路を含めて現場周辺を歩いた。三人の体験地点には共通点が少なく、道幅も見通しも街灯の間隔も違う。ただ、人通りが少なく、一人で歩いていた点は一致していた。聞き取りでも「暗い場所ほど出る」「十一時以降」「日付が変わってから」「住宅街だけ」「大通りでも出る」と証言がばらつき、時間や場所の規則は絞れない。
「噂の方が、現場に合わせてるのかもしれないね」
紗月が地図を見ながら言った。
「逆だ。人間が起きた場所に合わせて噂を変えてる可能性が高い」
「どっちにしても、まだ形がない」
「少なくとも、地理的な条件は絞れない」
その日の夕方、二人は学校近くの商店街へ向かった。生徒たちが後ろ連れについてどこで話しているのか確認するためだった。駅から学校へ続く商店街は、放課後になると制服姿の生徒が多い。噂を知る店員は少なかったが、最近、生徒たちが夜道の話をしていたという証言はいくつか取れた。
古書店の店主は、二週間ほど前から「後ろを見るな」という言葉を耳にするようになったが、何の話かまでは知らなかった。文具店では、女子生徒二人が「走ったら駄目らしい」「いや、走った方がいいって」と言い争っていたのを覚えていた。
「広がってる」
店を出ると、紗月が言った。
「何が」
「同じ矛盾。学校で聞いてた話が、もう商店街でも普通に語られてる」
「噂なら広がるのは普通だ」
「普通ならね」
久世は否定しなかった。
日が落ち、商店街の照明がガラス窓へ反射し始めた頃、二人は駅側へ戻った。閉店前の衣料品店、暗くなった美容室、ガラス張りの不動産屋。道路沿いには、人影を映すガラス面が多い。
「昨日から、反射が少し気になる」
紗月が言った。
「後ろを確認するためか」
「それもある。でも、優斗君も美緒さんも振り返ることを怖がってた。なら、正面を向いたまま後ろを見る方法を探す人はいるでしょ」
「窓か」
「うん」
噂の規則ではない。ただ、人間の行動としては自然だった。二人は歩きながら、店の窓に映る背後を意識的に確認した。後ろには高校生の集団や買い物客が映り、振り返れば実際にそこにいた。
「今のところ普通」
「普通が基準だ」
「あなた、事件が終わったらその言葉を額に入れて飾ったら?」
「いらない」
商店街を半分ほど進んだところで、紗月の歩調が止まった。
「久世」
「どうした」
「振り返らないで」
声が低かった。
久世は正面を向いたまま、左側の閉店した雑貨店のショーウインドーを見る。店内の照明は消えており、ガラスは外の通りを濃く映していた。そこに久世と紗月がいる。その後ろに、もう一人いた。久世より少し低く、黒っぽい服を着た人影に見えるが、輪郭は曖昧で顔までは分からない。二人から数メートル離れた位置に立ち、真正面からこちらを見ているように見えた。
「見えてる?」
「ああ」
「数えるよ」
「必要ない。三人だ」
二人は動かなかった。通行人が横を通り過ぎ、窓の中の像も一瞬重なる。それでも三人目は消えない。
久世は視線を窓から外さずに言った。
「俺が見る」
「一人で?」
「同時に振り返ったら、反射を見てる人間がいなくなる」
「そういう時だけ妙に合理的だね」
「いつもだ」
久世はゆっくり肩越しに振り返った。誰もいない。歩道の先に高校生が二人いるが、十数メートルは離れている。店の前には人影がない。
「いない」
「こっちはまだいる」
紗月の声で、久世はすぐ窓へ視線を戻した。三人目はまだ映っていた。ただし、今度は位置が変わっている。さっきより少しだけ近い。久世が振り返った間に一歩進んだように見えた。
「動いた?」
「分からない。私も一瞬あなたを見た」
「目を離したか」
「一秒もないと思う」
久世はスマートフォンを取り出した。
「撮る」
「待って」
「何だ」
「私も見る」
紗月がゆっくり振り返った。背後には、やはり誰もいない。紗月が窓へ視線を戻し、二人の視線が再びガラスの上に揃った時、映っていたのは二人だけだった。
しばらく誰も話さなかった。ガラスの向こうには暗い店内があり、その表面に久世と紗月の姿だけが重なっている。さっきまでそこにいたはずの三人目は、最初から存在しなかったように消えていた。
「撮れた?」
紗月が聞く。
「いや」
「そうだと思った」
「見間違いの可能性はある」
「二人で?」
「二人で同じものを見間違うことはある」
「反射の重なり」
「通行人。店内のマネキン。向かいのガラス。条件はいくらでもある」
紗月は頷いた。
「じゃあ、それを調べよう」
店の許可を取り、二人はショーウインドーの内側と外側を確認した。店内に人型のマネキンはなく、向かいの店からの多重反射も再現できない。同じ位置に立っても第三の像は現れなかった。防犯カメラには、久世と紗月が突然立ち止まり、交互に後ろを確認している姿だけが映っていた。その間、二人の背後を通った者はいない。
「これでも怪異とは言わない?」
確認を終えて外へ出た時、紗月が尋ねた。
「言ってもいい」
「珍しい」
「ただし、『説明できない現象が起きた』以上の意味では使わない」
「十分」
紗月は歩き出し、近くの別の店の窓へ一度だけ視線を向けた。そこには久世と紗月、二人分の影しかない。
「疑うのは必要。でも、見たものまでなかったことにしたら、それは捜査じゃない」
「同感だ」
「ちゃんと言えるんだ」
「何だと思ってた」
「頑固な人」
「それは否定しない」
二人は駅へ向かった。通り沿いの窓には、歩くたびに二人の姿が現れては消えていく。どの窓にも映るのは二人だけだった。少なくとも、次の角までは。
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