第四話 『記録にない鍵』
小野寺美咲は、しばらく俯いたままだった。机の上には、水瀬直哉の手帳から写した七つの受入番号と、直近一年の目録更新履歴が並んでいる。窓の外では、昨夜までの雨を含んだ雲が低く垂れ込め、閉館中の東都民俗文化資料館には空調の低い音だけが残っていた。
「真壁部長です」
ようやく出た名前に、白峰紗月は表情を変えなかった。
「真壁さんから、目録を直すように言われた?」
「はい。でも、変な指示だとは思ってませんでした。整理上の修正だって言われて……受入年の表記を統一したり、来歴欄を簡略化したり。部長の指示なら、私が勝手に疑う理由なんてないと思ってました」
「水瀬さんは?」
「後で気づきました。三件目を直した頃に、私の端末を見て……『元の記録を消すな』って。私は、部長の指示だって言ったんです。でも水瀬さんは、古い台帳と現物が合ってないから、修正じゃなくて上書きになってるって……」
美咲は唇を噛んだ。
「それで口論になった?」
「はい。私も、何も知らないのに疑われたと思って腹が立って……『自分だけ正しいみたいに言わないでください』って。最後に会ったのが、それです」
紗月は少しだけ声を柔らかくした。
「昨日、それを言えなかったのは?」
「怖かったんです。目録を触ったのは私だし、水瀬さんとも揉めてた。全部話したら、私がやったと思われるって」
「実際、黙ったせいで余計に怪しく見えたけどね」
久世が言うと、美咲は困ったように顔を上げた。
「遼一」
「事実だ」
「今それ言う?」
「次から黙らない理由にはなる」
美咲は一瞬だけ呆気に取られ、それからほんの少しだけ息を漏らした。笑ったのか、疲れて力が抜けただけなのかは分からなかった。
聞き取りを終えた二人は、真壁宗一郎の当日の行動記録を洗い直した。入退館システム上、真壁は午後八時三十二分に正面玄関から退館し、それ以降、職員証による再入館記録はない。館内の主要扉も電子錠で管理され、真壁のカードが使われた形跡はなかった。直哉の死亡推定時刻と照らせば、記録の上では真壁は館内にいなかったことになる。
「綺麗すぎるね」
紗月が端末を見ながら言った。
「綺麗だから嘘とは限らない」
「でも、好きじゃない顔してる」
「俺にそんな顔あるか?」
「あるよ。証拠が親切すぎる時の顔」
久世は答えず、第二資料室へ向かった。彼が気にしていたのは、電子記録そのものより、建物の古さだった。資料館は増築を繰り返しており、現在の収蔵区画にも旧館部分が残っている。新しい電子錠が付いていても、非常時に電源が落ちた時のための仕組みがあるはずだった。
管理担当者に確認すると、最初は「全て電子管理です」と返ってきた。しかし久世が停電時の避難動線まで尋ねると、担当者は考え込み、倉庫から古い設備図面を持ってきた。黄ばんだ図面の端に、現在は使われていない細い通路が描かれている。
「ここは?」
「旧搬入口ですね。十年以上前に閉鎖したはずです」
「完全に?」
「普段は。ですが……」
担当者は言葉を切り、図面の注記を指した。電子錠が導入される以前、収蔵区画には防災用の機械錠が併設されていた。現在も消防設備の点検時だけ使えるよう、非常用の解錠機構そのものは撤去されていない。
「鍵は?」
「管理職用の保管庫です。たぶん、今もあります」
地下の設備室へ下りると、空気は一段冷たくなった。むき出しの配管が天井を走り、古い蛍光灯がわずかに唸っている。壁際の金属棚から出された鍵箱には、用途不明の古い鍵が十数本吊られていた。その一つに、小さな札が付いている。
――旧収蔵区画 非常解錠。
「使用履歴は?」
「機械鍵なので、残りません」
紗月が久世を見る。
「じゃあ、電子記録に何もなくても入れる」
「理屈の上ではな」
「誰がこの鍵を使えるの?」
担当者は鍵箱の管理表を確認した。
「館長、施設責任者、それから資料管理部長です」
最後の肩書きだけが、地下の冷たい空気の中に妙に長く残った。
「真壁さん」
紗月が言った。
久世は鍵を見た。これで真壁が殺した証拠にはならない。目録修正を指示したことも、非常用の鍵へアクセスできたことも、それぞれ単独なら業務上の説明がつく。だが、昨日まで存在していた「館を出た後は戻れない」という前提だけは、もう成立しなかった。
「鍵そのものから痕跡は取れる?」
「使用頻度が低ければ、何か残ってる可能性はあります」
鑑識担当者が答えた。
「お願いします。それと、旧搬入口から第二資料室まで実際に歩けるか確認したい」
久世たちは細い裏通路へ入った。普段使われない区画だけに埃が薄く積もり、壁には旧館時代の番号札が残っている。途中で紗月が足を止めた。
「遼一」
「今度は何だ」
「そこ」
久世の靴先のすぐ前に、清掃用の低いバケツが置かれていた。
「……見えてた」
「避けてから言って」
「昨日から細かいな」
「現場を壊す人にだけね」
久世は無言で跨いだ。通路はやがて、第二資料室の裏手にある小さな保守扉へ繋がった。扉の向こうは、直哉が倒れていた棚から遠くない。正面廊下の監視カメラには映らない位置だった。
紗月が振り返る。
「八時半に帰った人でも、ここからなら戻れる」
「戻れる、だけだ」
「分かってる」
「ならいい」
久世は保守扉の錠前を見つめた。古い金属の縁には、つい最近まで完全に放置されていたとは思えない程度の擦れがある。鑑識が確認するまで触れない。今はただ、記録されない道が存在したという事実だけで十分だった。
資料館では、古い記録と現物が一致しなくなっている。そして今度は、人の行動まで記録と一致しなくなり始めていた。
読んでくださり、ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。




