第三話 『偽物の古文書』
翌朝、雨は上がっていたが、東都民俗文化資料館の窓にはまだ薄い水滴が残っていた。閉館措置が続く館内は前夜より静かで、来館者のいない展示室を抜けるたび、自分たちの足音だけが妙に大きく響く。久世遼一と白峰紗月は、第二資料室の手前に設けられた臨時の確認スペースで、水瀬直哉の手帳に残されていた七つの受入番号を一件ずつ照合していた。番号のうち四つは地方の民間信仰や口承記録に関する寄贈資料、二つは昭和期の採集ノート、残る一つは大正末期に作成されたとされる小冊子だった。
「全部、民俗関係だね」
紗月が一覧を見ながら言う。
「水瀬さんの仕事なら珍しくない」
「だから七つだけ抜き出した理由が必要だ」
久世は最後の番号を指で叩いた。二重丸がつけられていたのは、大正十四年に作成されたと記録されている『北遠地方異聞拾遺』という薄い冊子だった。館の台帳によれば、山間部の集落で採集された怪談や禁忌をまとめた個人記録で、数十年前に旧家から一括寄贈された資料の一つらしい。
資料は鑑識確認の後、保存担当立ち会いのもとで机へ運ばれた。久世は直接触れず、透明な保護板越しに状態を見た。表紙は退色し、綴じ糸も古い。ぱっと見ただけなら、長い時間を経た紙束にしか見えない。だが保存担当者が頁をめくるうち、一か所だけ不自然な補修跡が現れた。裂けた頁の裏側に、ごく薄い補強紙が貼られている。
「これ、いつの補修です?」
久世が聞くと、担当者は台帳を確認して首を傾げた。
「記録がありませんね。少なくとも当館で処置した形跡はないです」
「寄贈される前の古い補修じゃない?」
紗月が訊く。
「見た目はそう見えます。でも接着剤が妙なんです。これ、かなり新しい可能性があります」
久世は黙ったまま補修部分を見た。古い資料に新しい手が入ること自体は珍しくない。問題は、その経緯がどこにも記録されていないことだった。さらに別の頁では、本文の端に押された整理印が台帳上の受入時期と一致しない。少なくとも一度、誰かがこの冊子を“古いものとして見える状態”に整え直している。
「記録と物が合わない」
紗月が小さく言った。
「水瀬さんの言葉と同じだな」
久世は七つの番号を見直した。他の六点にも小さな矛盾があった。貼り替えられたラベル、記録のない再綴じ、別年代の箱へ移された痕跡。どれも単独なら管理上のミスで片づけられる程度だ。だが、七つすべてに“説明されていない手直し”があるとなれば、偶然では済みにくい。
その頃、水瀬史織も資料館へ来ていた。前夜より顔色は落ち着いていたが、目の下には眠れていない影が残っている。彼女は問題の冊子を見せられると、しばらく何も言わず表紙と目録を見比べた。
「この資料、論文で引用されています」
「誰の?」
「何人も。特に、この地域に昔からあったとされる“山中の辻で石を三つ積んではならない”という禁忌の根拠の一つです。これが本当に大正期の採集記録なら、少なくともその頃には話が存在していたことになる」
「本当に大正期なら、か」
久世の言葉に、史織は頷いた。
「もし後から作られたものなら、話の歴史そのものが変わります。都市伝説や怪談って、古そうに見えるだけで信じられ方が変わるんです。『昔からあった』という一言は、思っているより強い」
紗月が冊子へ視線を落とした。
「作り話でも、古い資料に書いてあれば本物らしく見える」
「ええ。でも、今は民俗学の話より、直哉がどうしてこれを調べていたかのほうが大事ですね」
史織の声は静かだった。その言い方に、久世はほんの少しだけ彼女を見直した。研究者として興味を持つには十分な異常だったはずだ。それでも今は、夫の死を先に置いている。
調査を進めると、七件のうち三件について、直近一年以内に目録情報が修正されていたことが分かった。更新者欄に記録されていた名前は、小野寺美咲だった。
「昨日、言いたくないことがあるって言ったよね」
紗月が端末を見せる。
「ここまで分かりやすいと、逆に親切だな」
「本人に言ったら怒られるよ」
「怒るなら話を聞けばいい」
美咲は午前中の聞き取りに呼ばれた。前夜より顔色は悪く、椅子へ座ってからも膝の上で指を組み続けていた。紗月が目録更新について尋ねると、美咲の肩がわずかに強張る。
「私が入力しました。でも、勝手に変えたわけじゃありません」
「誰に頼まれた?」
「それは……」
「水瀬さん?」
久世が聞くと、美咲はすぐに首を振った。
「違います。水瀬さんは、むしろ止めてました」
部屋の空気が変わった。紗月は急かさず、美咲が自分で続けるのを待った。
「一週間くらい前に、私、水瀬さんと口論しました」
「昨日は揉めていないと言った」
「……怖かったんです。私が疑われると思って」
美咲は俯いたまま、ようやく言った。
「目録を直したことで、水瀬さんに『何を消したのか分かってるのか』って言われました。私も腹が立って……かなり酷いことを言いました」
久世は机の上の七つの受入番号へ目を落とした。死者が残した数字、記録のない補修、書き換えられた目録、そしてそれを実際に操作した若い職員。そこまで揃えば、美咲を疑う理由は十分にある。ただし、理由が十分にあることと、それが答えであることは別だった。
「小野寺さん」
久世が顔を上げる。
「誰に頼まれて目録を直した?」
美咲はすぐには答えなかった。その沈黙だけが、前夜の十三秒よりもはるかに人間らしく、そして明確に事件の中心へ近づいていた。
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