第二話 『十三秒』
午前零時を回っても、東都民俗文化資料館の雨音は弱まらなかった。警備室のモニターには、第二資料室へ続く廊下が無言のまま映り続けている。二十二時十三分七秒。十三秒の欠落。二十二時十三分二十秒。久世遼一は同じ映像を三度見直したが、画面の中には人影も、開く扉も、照明の変化もなかった。温湿度管理の記録も同じ十三秒だけ抜け落ちている。系統も時計も別。技術担当者は「偶然の重複障害ならゼロではないです」と言ったが、その声は自分でも納得していないように聞こえた。
「ゼロではない、は便利な言葉だね」
白峰紗月が壁にもたれながら言う。
「便利だから残ってる」
「さっき私の言葉を真似するなって言った人がいた気がする」
「気のせいだ」
久世は再び画面へ目を戻した。現時点で、この十三秒は事件を解く鍵ではない。むしろ厄介なのは、意味があるように見えて、何の役にも立っていないことだった。欠落した時間は水瀬直哉が倒れたと推定される時刻より後にあり、誰かの出入りを隠しているわけでもない。ならば今は、説明できない事実として残しておくしかない。
技術担当者が音声波形を開いた。
「映像ファイルの周辺に、変なノイズが一つあります。声にも見えるんですが……」
再生すると、低い機械音の奥に、息とも遠い話し声ともつかない短い揺れが混じった。紗月が眉を寄せる。
「何て言ってる?」
「分からない。言葉に聞こえると思って聞けば、そう聞こえる程度だ」
「電気ノイズの可能性も?」
「あります」
担当者が答えた。
「じゃあ、それも今は保留だ」
久世は波形の時刻だけを控えた。分からないものを怖がる必要はない。だが、分からないものを勝手に説明してしまえば、後で本当に必要な違和感まで見失う。
午前一時を過ぎた頃、水瀬史織への正式な聞き取りが始まった。応接室には紙コップの温い茶が置かれていたが、史織は一度も口をつけなかった。濡れていた黒髪は少し乾き、低い位置でまとめ直されている。顔色は悪い。それでも質問には一つずつ、丁寧に答えた。
「直哉さんは最近、仕事のことで悩んでいましたか」
紗月が尋ねる。
「悩んでいた、というより……気になることがあると言っていました。帰りが遅くなったのもここ二、三週間です」
「何が気になるかは?」
「詳しくは聞いていません。私も民俗資料を扱いますけど、夫は保存や来歴の確認が専門でした。私が口を出すと、すぐに『研究者は物語を信じたがる』って言うんです」
ほんの一瞬だけ、史織の口元が緩んだ。笑いというより、身体に残った習慣が勝手に動いたような表情だった。
「仲が悪かった?」
久世が聞くと、史織は彼を見て、少し驚いたように瞬いた。
「まさか。あの人の冗談は、半分くらい本気だっただけです」
「半分なら結構多いな」
「久世」
「質問だ」
紗月が小さく息を吐き、史織は今度こそ、ごく短く笑った。その笑みはすぐに消えたが、部屋の空気がほんの少しだけ人間のものへ戻る。
史織によれば、直哉は几帳面な男だった。古い資料を扱う時は必ず手袋を使い、仕事の途中でも鉛筆を同じ場所へ戻す。だが家では本を開いたまま眠り、コーヒーを淹れれば必ず一杯分多く作った。史織が夜遅く帰る日でも、帰宅時刻を見越して置いておくためだったという。
「昨日も?」
「はい。朝、流しに二つカップがありました。私が先に出たので……」
そこで史織は言葉を止めた。自分が飲まなかった一杯が、今になってどこにも行き場を持たないことに気づいたようだった。
紗月は質問を続けなかった。少し時間を置いてから、直哉が最近持ち帰った資料や、誰かと揉めていた様子がなかったかだけを確認した。史織は首を横に振る。
「ただ、何かを確かめている感じはありました。『記録と物が合わない』って、一度だけ」
久世の目が上がった。
「それはいつ?」
「三日前です。私が詳しく聞いたら、『まだ決めつけたくない』って」
紗月と久世の視線が一瞬だけ交わった。言い方まで似ている。久世は何も言わず、その言葉を書き留めた。
聞き取りが終わると、史織は深く頭を下げた。久世が先に部屋を出たあとも、紗月は残った。廊下へ出た久世には、扉越しの会話は聞こえなかった。十数分後、紗月が戻ってくる。
「何を話した?」
「事件と関係ないこと」
「なら聞かない」
「珍しく物分かりがいい」
「俺はいつもいい」
「それは今度、第三者に確認しようか」
二人は第二資料室へ戻った。鑑識作業は続いており、机の上には直哉の私物がまとめられている。黒い手帳、鉛筆、保存用手袋、古い鍵束。久世は許可を得て手帳を開いた。予定や作業記録が几帳面に並ぶ中、後半の数ページだけ、同じ形式の数字が繰り返し記されている。
「これ、何?」
紗月が横から覗く。
「受入番号だろうな」
久世はページをめくった。数字は七件。いくつかには丸がつき、その横に短い印がある。内容を示す説明はない。ただ、一番下だけ二重に囲まれていた。
「資料名は書いてないね」
「ああ。だから調べる」
久世は手帳を閉じ、一覧を複写するよう頼んだ。窓の外では雨がまだ降っている。十三秒の空白は何も語らない。だが、水瀬直哉は死ぬ前に、何かを確かめようとしていた。
そして、その答えはおそらく、この七つの番号の中にある。
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