第一話 『死者の資料室』
十月の雨は、夜になっても細く途切れなかった。東都民俗文化資料館は既に閉館し、黒いガラス扉の向こうには、二階の収蔵区画に残された白い蛍光灯だけが浮かんでいる。古紙と保存処理剤の匂いが染みついた建物の静けさを破ったのは、第二資料室へ確認に入った警備員の悲鳴だった。可動式の梯子の脇に男が倒れ、頭部のそばへ暗い血が広がっていた。散らばった古い目録、棚に対して不自然な角度で止まった梯子。救急隊が到着した時には、男――水瀬直哉は既に死亡していた。
午後十時四十二分。久世遼一が到着すると、雨に濡れた正面玄関の前で赤色灯が回っていた。額へ落ちた黒髪を払い、受付で身分証を見せて二階へ上がると、階段の上で白峰紗月が待っている。長い髪は一見すると黒く、蛍光灯を受けた時だけ深い紫の艶を帯びた。
「遅い」
「三分だ」
「遅刻した人はみんなそういう計算するの?」
「誤差だ」
紗月は呆れたように息を吐いたが、第二資料室へ入る頃には表情を切り替えていた。久世も遺体だけを見ない。床、梯子、棚、散らばった目録、出口。何があるかだけでなく、本来あるべきものが欠けていないかまで順に視線を動かす。
「転落事故の可能性が高いそうです」
現場担当の刑事が言った。
「現時点では、でしょう」
久世は手袋を着けてしゃがんだ。直哉の眼鏡は右手から一メートルほど離れた棚の下に落ち、片方のつるが内側へ折れている。右手の指先には淡い灰色の繊維らしきものが付着していた。さらに梯子を見上げると、上段の開いた区画へ手を伸ばすには位置がわずかに遠い。毎日この設備を扱う職員が、わざわざ身体を横へ伸ばすような位置で作業したのか。不可能ではない。ただ、不自然さは残る。
「遼一、コート」
濡れた裾が保管箱へ触れかけ、久世は半歩ずれた。
「分かってる」
「触れる直前だったけど」
「触れてない」
「今のは?」
「……数えないでくれ」
紗月の口元が少しだけ緩んだ。しかし視線はすぐ、廊下に集められた職員へ戻る。泣いている若い女性、青ざめた警備員、静かに警察官へ応対する年配の男。同じ死を前にしても、人間の怯え方は同じではない。
短い黒髪の若い職員は小野寺美咲、二十六歳だった。紗月が水瀬の最近の様子を尋ねると、美咲は「変わったことはありません」と答えたが、返事までの間が妙に短い。追及せず見送った紗月の隣へ久世が立った。
「嘘か?」
「言いたくないことはある」
「殺した?」
「そこまで顔に書いてくれたら楽なんだけどね」
その直後、資料管理部長の真壁宗一郎が二人へ挨拶した。五十代半ば、こめかみに銀の混じる黒髪と角型の眼鏡、乱れのないスーツ。水瀬は最近遅くまで寄贈資料を確認していた、と真壁は淀みなく説明する。
「何を確認していたんです?」
「地方の民間伝承に関する資料だったと思います。彼は保存と来歴確認の担当でしたから、私もすべては把握していません」
不自然ではない答えだった。それでも真壁が離れたあと、紗月はしばらくその背中を見ていた。
「何か?」
「まだ分からない」
「俺と同じことを言うな」
「便利だから」
午後十一時を過ぎた頃、一人の女性が雨に濡れたまま資料館へ入ってきた。低い位置でまとめた黒髪、握ったままの濡れた傘。水瀬史織は紗月の顔を見るなり、他の説明を待たずに尋ねた。
「夫は、生きていますか」
「……いいえ」
史織の指が鞄の持ち手へ食い込んだ。泣き崩れはしない。ただ呼吸が一度止まり、やがて細く吐き出された。
「事故なんですか」
久世は梯子、眼鏡、灰色の繊維、美咲の躊躇、真壁の返答を思い返した。どれもまだ殺人を証明しない。
「まだ分かりません。だから決めつけません。確認できたことだけを積み上げます」
史織は久世を見つめ、やがて小さく頭を下げた。
「……お願いします」
午前零時近く、久世は一階の警備室へ呼ばれた。監視画面には第二資料室へ続く誰もいない廊下が映っている。
「映像が一部壊れてます」
「どのくらい?」
「十三秒です。二十二時十三分七秒から二十秒まで」
再生すると、空の廊下を時刻だけが進む。二十二時十三分七秒。映像が乱れ、次の瞬間には二十秒。扉も蛍光灯も変わらない。
「他のカメラは?」
「正常です。ただ、温湿度管理のログも同じ十三秒だけ飛んでます」
「同じサーバー?」
「別系統です。時計の同期元も違います」
紗月が久世の肩越しに画面を見た。
「十三秒の間に、何があったと思う?」
久世はもう一度再生した。七秒。欠落。二十秒。誰もいない。
「分からない」
「珍しく素直」
「分からないものを、分かったことにするほうがまずい」
映像が止まる。二十二時十三分七秒。白い蛍光灯の下、奥の通路だけが黒く沈んでいる。
そこには、何も映っていなかった。
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