第一章 第十三話 『花子さんの外』
花子が校門の外へ二歩目を踏み出した瞬間、白峰紗月には少女の姿が一度だけ途切れて見えた。消えたわけではない。街灯の下で輪郭だけが薄い紙を水に浸したように揺れ、次の瞬間には元の位置へ戻っている。ただし、学校の中にいた時とは違い、黒い髪の端も赤いスカートの裾も、夜の空気へ溶けかけているように見えた。
「花子さん?」
「いる」
返事はしたが、声が少し遠い。目の前にいるのに、閉じた扉の向こうから聞いているようだった。久世遼一は校門と花子の距離を見た。まだ三メートルも離れていない。
「戻るか」
「まだ」
「無理する必要はない」
「見ないと分かんない」
昨日までと同じ答えだったが、語尾がわずかに掠れている。
「じゃあ、遠くまで行かない。学校が見える範囲だけ」
紗月が言うと、花子は頷いた。久世は地図を開き、正門前の歩道を百メートルほど進んで戻るだけの経路を選ぶ。後ろ連れの目撃が多い住宅街までは行かない。
「後ろ連れを探す前に?」
「花子がどの距離まで安定して動けるか分からない。先に限界を測る」
花子が久世を見る。
「倒れない」
「分からないだろ」
「分かんない」
「なら同じだ」
三人が歩き始め、学校から十メートルほど離れたところで、花子の足音が初めて聞こえた。校内では靴底が床へ触れても音がなかったのに、外では小さく「こつ」と響く。ただし毎回ではない。一歩目は鳴り、二歩目は鳴らず、三歩目は少し遅れて別の位置から聞こえた。
「歩きにくい?」
「変」
「何が?」
「地面」
花子はそれ以上説明しなかった。歩道の端を歩いているはずなのに、視線を外した一瞬だけ少女が車道側へ一メートルほどずれて見え、次に見れば元の位置にいる。
「位置、ずれてるよね」
「ああ」
「花子さん、自分では分かる?」
「たまに、近くない」
「何に?」
「自分に」
学校から五十メートルほど離れた頃には、花子の輪郭はさらに薄くなっていた。街灯の真下でも顔の陰影がはっきりせず、黒い髪と夜の境目が曖昧になる。久世はそこで足を止めた。
「戻る」
「まだ平気」
「声がさっきより小さい。位置もずれた。足音も一定してない」
「数えてたの?」
「当然だ」
花子はわずかに眉を寄せたが、次の一歩で輪郭が大きく揺れた。久世はその変化を見逃さず、即座に進路を学校側へ変える。
「学校へ戻る」
「でも、外じゃないと分かんない」
「外に出ることと、遠くまで行くことは同じじゃない」
その時、交差点の向こうから一歩分の足音が響いた。三人とも同時に止まると、少し遅れてもう一度、「こつ」と鳴る。交差点には誰もいない。コンビニの明かりが道路を照らし、停車中の車の窓には久世と紗月の姿だけが細く反射している。二人の間に立っている花子の姿は、やはりどこにも映っていなかった。
花子が顔を上げた。
「後ろ」
「学校の外でも分かる?」
「うん。でも、遠い」
さらに一歩分の足音が響き、花子が前へ出た。
「来る」
「待て」
久世が少女の肩へ手を伸ばす。触れる直前、花子の姿が途切れ、次の瞬間には二メートル先のカーブミラーの下に立っていた。自分で移動したようには見えず、少女自身も戸惑ったように足元を見る。
「今、自分で動いたか」
「分かんない」
「戻れ」
「後ろが来る」
花子の背後にあるカーブミラーの鏡面へ、黒い影が映った。少女のすぐ後ろに誰かが立っているように見えるが、現実の道路には誰もいない。
「一回――」
「数えるな」
「ごめん」
影は一度消え、次には停車中の車の窓へ同じ黒い輪郭が現れた。花子が何もない空間へ向けて右手を上げる。校内で廊下や扉を変えた時のような大きな変化は起こらず、近くの街灯が一度だけ消え、車の窓に映っていた影が崩れた。それとほとんど同時に花子自身の身体も薄くなり、輪郭が二重になって、半歩ずれた位置へ残像のように浮かんだ。
「花子さん!」
紗月が駆け寄る。
「触るな。何が起きるか分からない」
花子が何か言ったが、声がほとんど聞こえない。紗月が顔を近づけると、途切れた声がようやく届いた。
「……あれ、こっちだと、強い」
「後ろ連れが?」
花子が頷く。その直後、足音が右側の路地から響き、次には左側から聞こえた。姿だけでなく位置まで定まらない。
「戻る。紗月、花子の左。俺が右。走らない」
「了解」
「花子、俺たちの間から出るな」
「命令?」
「提案だ。今は一番安全だと思う」
少女は少しだけ久世を見てから頷いた。
三人は学校へ向かって歩き始めた。足音は一定の距離を保ちながら追ってくるが、後ろから聞こえたかと思えば横へ移り、次の瞬間には前方から響く。それでも現実の道路には姿がない。途中、民家の窓ガラスに久世と紗月が映り、その間、本来なら花子が立っている位置だけが不自然に空いていた。だが、その空白の背後には黒い輪郭が重なっている。
「見ない」
久世が言う。
花子だけが窓へ顔を向けた。
「いる」
「分かっても追うな」
「でも」
「外でお前が弱くなるなら、相手の条件で戦う必要はない」
「戦うって言ってない」
「前に出た。結果は同じだ」
花子は不満そうに黙った。
校門まで残り二十メートル。花子の姿は数歩ごとに薄くなり、声もほとんど聞こえなくなっていた。その時、紗月の背後から久世とまったく同じ声がした。
『白峰』
本物の久世は右側にいる。紗月は反応しない。
『紗月』
花子が立ち止まり、右手を上げようとする。
「何もしなくていい」
「でも」
「学校まで二十メートルだ。俺たちは歩ける」
花子の手が止まった。
「お前が消える方が困る」
少女は久世を見た。紗月も横目で彼を見る。
「それ、心配してるって言えばいいのに」
「状況判断だ」
花子は何も言わず、上げていた手を下ろした。
三人が校門へ近づくほど、後ろ連れの足音は逆に大きくなった。久世は速度を変えない。走れば花子の位置を見失う可能性がある。最後の十メートルで少女の姿が完全に消え、紗月が足を止めかけた。
「花子さん?」
「止まるな。さっきまで俺たちの間にいた。校門まで進む」
三歩進んだところで、紗月の左袖に何か冷たいものが触れた。
「いる。見えないけど、ここ」
紗月は腕を動かさず、そのまま歩いた。校門を越えた瞬間、学校側の街灯が一斉に点き、左隣にぼんやりと輪郭が現れる。そこへ黒い髪、白い上着、赤いスカートが順に戻り、数秒かけて花子はいつもの姿へ安定していった。その直後、校門の外から一度だけ足音が響いた。
こつ。
花子がそちらを見る。今度は姿が揺れない。外側の街灯が一つ消えると、足音もそこで止まった。
「外、嫌い」
しばらくして花子が言った。
「それは、もう知ってる」
紗月が息を吐く。
「前より嫌い」
「今日は戻ろう」
「うん」
三階女子トイレへ戻る途中、久世は一度も花子を急がせなかった。階段を上るごとに声が戻り、二階では不規則だった足音そのものが消え、三階へ着く頃には輪郭も完全に安定していた。
「外では、後ろ連れの方が強い」
久世が言う。
「うん」
「学校の中では?」
「知らない」
紗月が笑った。
「戻ったね」
「何が」
「その答え方」
久世は今日確認できたことを整理した。学校から離れるほど花子の姿、声、位置が不安定になる。外でも後ろ連れを感知することはできるが、自分の領域にいる時ほど環境へ干渉できず、無理に力を使えば自分自身の形まで崩れる。
「次から外へ出る時は、距離を決める」
「次もあるの?」
「必要なら。ただし、出るかどうかはお前が決めろ。出たあとに無理をしてるなら止める」
「なんで」
「一緒に調べるなら、その方が効率がいい」
花子は久世を見た。
「効率」
「不満か」
「変な言い方」
「久世だからね」
紗月が言う。
花子は少し首を傾けたあと、三番目の個室へ入った。
「今日はもう来ないで」
「分かった」
久世が即答すると、紗月が驚いた顔をした。
「素直」
「休ませた方がいい」
「やっぱり心配してるじゃない」
「状況判断だ」
個室の奥から一滴だけ水が落ちた。いつもの乾いた静けさの中に響いたその音が、今日は少しだけ呆れているように聞こえた。
読んでくださり、ありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマークと評価をいただけると嬉しいです。




