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夜境捜査録 噂が現実になる夜  作者: 鈴木 明
第一章 『後ろ連れ』
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第一章 第十二話 『家までついてくる』

翌日の夜、久世遼一と白峰紗月は、署へ戻る途中で緊急連絡を受けた。後ろ連れに関する相談で、通報者は二年生の女子生徒・小川真帆。自宅マンションの中で「誰かに追われている」と訴え、外出中だった母親が一一〇番へ連絡していた。母親によれば、真帆は塾帰りに三度、反射の中で同じ人影を見た。一度目は駅のホームドア、二度目はコンビニの窓、三度目はマンションのエレベーターの鏡。その直後から、部屋の中で足音がするようになったという。


「家の外じゃないの?」


 車内で紗月が確認した。


「本人は中だと言ってる」


「玲奈さんの時は玄関前で止まった」


「ああ」


「ルールがまた変わった?」


「まだ分からない」


 久世は端末を見た。今朝から匿名掲示板に、「三回見たら家まで」ではなく「三回見たら家の中まで入ってくる」という書き込みが増えている。最初の投稿は今日の午前十一時二十二分。真帆が三度目の反射を見たのは二十時四十七分だった。


「また、噂が先」


「順番だけはな」


 マンションへ着くと、制服警官二人が入口で待っていた。玄関は内側から施錠され、真帆は室内にいる。電話は繋がっているが、数分前から返事がない。久世が真帆の番号へかけると、三回目でようやく繋がった。


『……もしもし』


「小川真帆さん?」


『はい』


「警察だ。今、玄関の外にいる。怪我は」


『ないです。でも、家の中にいます』


「誰が」


『分かりません』


「見た?」


『鏡にだけ』


 久世と紗月が顔を見合わせた。


「今どこにいる」


『自分の部屋です。ドア閉めてます』


「そこに鏡は?」


『あります』


「見なくていい。今見えている普通の物だけ教えて」


『机、ベッド、カーテン……写真』


「写真?」


『さっきから、おかしいんです。家族写真に、知らない人がいる』


 声が震えた。紗月が久世からスマートフォンを受け取る。


「真帆ちゃん、写真は伏せられる?」


『近づきたくない』


「じゃあそのままでいい。見なくていいから、私の声だけ聞いて」


 室内の状況が分からないため、管理会社立ち会いで解錠し、久世と紗月だけが先に入った。制服警官には玄関を開けたまま確保してもらう。扉が開いた瞬間、室内から冷たい空気が流れた。暖房はついている。それでも玄関の奥だけが外気のように冷えている。


「真帆さん、入った。声を出せる?」


『はい』


「そのまま電話を切るな」


 間取りは二LDK。玄関から廊下が伸び、その先にリビング、右手に洗面所、左手に真帆の部屋がある。図面では玄関から部屋まで七メートルもない。だが、廊下の奥が妙に遠かった。


「また距離」


 紗月が囁く。


「壁を基準にする」


 久世は左手を壁へつけ、歩数を数えた。十歩、十五歩。真帆の部屋の扉は近づかない。振り返れば玄関はすぐ後ろに見えるのに、正面だけが伸びている。右手の洗面所には鏡があった。


「見ない方がいい?」


「見なくても進める」


 二人が鏡を見ず壁沿いに進むと、遠かった真帆の部屋の扉が数歩先に現れた。


「視線で変わる?」


「まだ決めるな」


 その時、リビングの方から女の声がした。


『真帆? 帰ったよ』


 電話の向こうで真帆が息を呑む。


『お母さん……』


「違う」


 紗月がすぐ言った。


「お母さんはまだ下。返事しないで」


 リビングから、もう一度。


『真帆。どこにいるの?』


 今度は少し近い。久世は真帆の部屋の扉を叩いた。


「警察だ。開けられるか」


『……はい』


 鍵が外れる音がした。扉が数センチ開き、真帆の顔が見える。久世が隙間へ手をかけようとした瞬間、紗月が止めた。


「待って」


 扉の内側、真帆の背後に姿見がある。鏡の中には真帆がいる。その後ろに、黒い人影が立っていた。現実の部屋には誰もいない。


「真帆ちゃん、鏡を見ないで。そのままこっちへ来て」


『でも、後ろに――』


「見なくていい。私を見て」


 真帆が一歩出ると、鏡の中の影も近づく。二歩、三歩。黒い輪郭が真帆の肩へ手を伸ばした。紗月は部屋へ入り、ベッドの上の毛布を取って姿見へ投げかける。鏡面が完全に隠れた直後、何かが鏡の向こう側から布を一度強く叩いた。「どん」という鈍い音に、真帆が悲鳴を飲み込む。


「走らない」


 久世が言った。


「玄関まで普通に歩く。反射は見ない。声に返事もしない」


「それ、後ろ連れのルールを信じるってこと?」


 紗月が聞く。


「違う。今まで危険と一致した刺激を減らすだけだ」


 三人で廊下へ戻る。さっきまで七メートル以上に伸びていた空間が、今度は狭すぎるように見えた。玄関はすぐそこにある。そのはずなのに、歩いても距離が縮まらない。壁には家族写真が三枚並び、一枚目も二枚目も真帆と両親だけだったが、三枚目には四人いた。父親と母親の間に、黒い服の人物が立っている。顔だけが光を吸ったように見えない。


「見ないで」


 紗月が真帆の視線を遮った。


 次の瞬間、背後から久世の声がした。


『白峰、止まれ』


 本物の久世は紗月の右側を歩いている。


「無視」


「分かってる」


『白峰』


 声が近づく。


『紗月』


 紗月の足が一瞬だけ止まりかけた。久世が前を向いたまま言う。


「俺は右にいる」


「見えてる」


 三人は歩き続ける。今度は真帆の母親の声、その次は父親の声が重なった。


『真帆、こっち』


『大丈夫だから』


 真帆の呼吸が早くなる。


「今見えてる人だけ」


 紗月が言う。


「私と久世。玄関。開いてる扉。それだけ」


「……はい」


「写真は見なくていい。声も確かめなくていい」


 玄関の向こうに制服警官が見えている。それなのに、数メートルが異様に遠い。久世は壁から手を離さなかった。


「床を見るな。正面だけ」


「どうして?」


「廊下の端が動いてる」


 紗月が視線だけを落とすと、床板の継ぎ目が奥へ流れていた。歩くたびに一枚ずつ増えている。


「見ない方がいいね」


「ああ」


 三人は視線を玄関の外へ固定した。制服警官が手を伸ばし、やがて紗月がその腕を掴む。その瞬間、距離が戻り、三人の身体がほとんど同時に玄関前へ出た。久世も最後に敷居を越えると、室内で「こつ」と一歩目が響いた。誰も振り返らない。二歩目の足音が続いたが、三歩目はなかった。


 真帆を母親へ引き渡したあと、二人は室内を再確認した。廊下は図面どおり七メートル弱。毛布は床へ落ち、鏡に傷はない。家族写真も三人だけに戻っていた。


「証拠、ほとんど残ってない」


 紗月が写真を見ながら言った。


「母親の声は俺たちも聞いた」


「あなたの声もね」


「真帆の証言だけではない」


「でも、家の中に入ったことは?」


「少なくとも俺たちにはそう見えた」


 久世は言い切らなかった。


 署へ戻る前に掲示板を確認すると、「三回見たら家の中まで入ってくる」という記述の初出は午前十一時二十二分。それ以前は「家までついてくる」までだった。


「また先に言葉が変わってる」


 紗月が言った。


「ああ」


「外から玄関前へ。今度は家の中」


「人がそう言ったあとにな」


 その夜、二人は学校へ寄った。三階女子トイレで扉を三回叩くと、花子はいつもより早く現れた。


「遅い」


「待ってたのか?」


「うるさかった」


「後ろ連れが?」


「遠くでもする」


 紗月が今日の出来事を説明した。三回の反射、室内の足音、写真に増えた人物、伸びる廊下、家族や久世の声まで聞き終えると、花子はしばらく黙って蛇口を見た。


「家の中まで入った」


 紗月が最後に言う。


「前は、そこまでじゃなかったと思う」


 花子は少し間を置いた。


「外であれを見たことないから分かんない」


「学校の外?」


「うん」


「出たことは?」


「少しだけ」


「どこまで」


 花子は答えなかった。


 久世が聞く。


「外へ出れば、後ろ連れのことが分かるか」


「分かんない」


「なら無理に出る必要はない」


 花子が久世を見る。


「見ないと分かんない」


「遠いのは嫌いなんだろ」


「嫌い」


「弱くなる可能性もある」


「知らない」


 紗月が口を挟む。


「今日は行かなくていいよ。私たちが調べるから」


 花子は少しだけ首を傾けた。


「でも、そっちは私のところじゃない」


「そうだね」


「だから、分かんない」


 しばらく沈黙したあと、花子は三番目の個室から出た。


「どこへ行く」


 久世が尋ねる。


「外」


「今から?」


「見るだけ」


 二人は止めなかった。ただし、一人にはしない。三人で階段を下りると、花子は一階へ近づくほど口数が減った。玄関を抜けても消えない。校庭を横切り、正門まで来ると、門の向こうに街灯で照らされた歩道と住宅街が続いていた。


「ここから先は学校じゃない」


 紗月が言う。


「分かってる」


「戻ってもいい」


「うん」


 そう答えながら、花子は戻らなかった。黒い靴で一歩、校門の外の歩道へ踏み出した瞬間、少女の輪郭がほんのわずかに揺れる。それでも立ち止まらず、花子はもう一歩を学校の外へ出した。

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