第一章 第十一話 『名前を呼ぶもの』
翌日の夕方、久世遼一と白峰紗月は、署の会議室で新たに集まった三件の相談記録を並べていた。共通しているのは、夜道で自分の名前を呼ばれたこと。そして、その声が知らない誰かではなく、よく知っている人物のものだったことだ。
一人目は二年生の女子生徒。帰宅途中、後ろから母親の声で名前を呼ばれた。母親はその時間、自宅にいた。二人目は同じ学校の男子生徒で、昨年亡くなった祖父の声を聞いたという。三人目は学校とは無関係の会社員で、別居中の妻の声だった。
「前から名前を呼ぶ話はあった」
紗月が記録を揃えた。
「ああ。ただ、声の正体が具体的になってる」
「優斗君はあとから母親だと思うようになった。今回は最初から『その人の声だった』って言ってる」
「しかも三件とも、後ろ連れの噂を知ってる」
「知らない人には?」
「今のところ確認できてない」
最初に会ったのは、亡くなった祖父の声を聞いたという二年生の宮原颯太だった。放課後の相談室で、颯太は両手を膝の間に挟んだまま話した。
「じいちゃん、俺のこと『颯坊』って呼んでたんです」
「他にそう呼ぶ人は?」
「いません」
「何て言われた?」
「最初は『颯坊』。次に『こっち向け』って」
「お祖父さんは、生前そういう言い方をした?」
「します。俺が話を聞いてない時とか」
「返事は?」
「しなかったです。後ろ連れは返事したら駄目って聞いてたから」
「振り返った?」
「してません」
「どこまで続いた?」
「大通りに出たら聞こえなくなりました」
久世はメモを止めた。
「大通りなら消える、という話は知ってた?」
「知らないです。俺が聞いたのは、振り返るな、返事するな、三回見たら家まで来る、それだけです」
相談室を出たあと、紗月が低く言った。
「本人しか分からない呼び方まで使ってる」
「家族や友人から漏れた可能性はある」
「そういう可能性を全部残すの、才能だね」
「捜査だ」
「知ってる」
三人目の会社員・三枝直樹も、別居中の妻しか普段使わない「なお」という呼び方で名前を呼ばれていた。後ろ連れについて知っていたのは、夜道で足音がついてくること、振り返らないこと、名前を呼ばれても答えないことだけだった。
「個人的な記憶に近づいてる」
聞き取りを終えた紗月が言った。
「声の真似だけなら録音でもできる」
「呼び方まで?」
「情報さえあれば」
「誰が集めるの」
「それを調べてる」
午後七時前、二人は再び学校へ向かった。後ろ連れが声を真似るようになったのなら、花子が何か変化を感じている可能性がある。ただし、答えを知っていると決めてかかるつもりはなかった。
三階女子トイレへ着くと、久世は前回と同じ位置に小型録音機を置き、作動を確認した。そのあとで三番目の扉を三回叩く。
こん、こん、こん。
「花子さん、いますか」
少し待つと、洗面台から一滴だけ水が落ちた。次の瞬間、花子は三番目の個室の中に立っていた。
「また来た」
「聞きたいことがある」
「後ろのこと」
「分かるのか」
「うるさいから」
紗月が尋ねる。
「前より?」
「うん」
「何が変わった?」
「声」
「知ってる人の声を真似してる?」
花子は首を傾けた。
「真似っていうより、借りてるみたい」
「どう違う」
「知らない」
久世が続ける。
「名前を呼ばれる。返事をすると何が起きる?」
「知らない」
「危険か」
「たぶん」
「根拠は」
「嫌な感じがする」
「それだけ?」
「それだけじゃだめ?」
紗月が横から言った。
「今はそれでいいと思う」
久世は反論しなかった。花子の感覚は証拠ではない。ただ、分からないことを無理に説明しない点は、これまで一貫している。
「声を聞いたら、どうする」
紗月が尋ねる。
花子は少し考えた。
「返事しない」
「どうして?」
「返事したら、そっちが本物になるかもしれないから」
久世の眉が動いた。
「本物?」
「呼ばれた方が」
「意味が分からない」
「私も分からない」
その時、花子が突然、久世の後ろを見た。それまでほとんど変わらなかった表情が、初めて明確に硬くなる。
「返事しちゃだめ」
紗月も久世の背後へ視線を向けた。誰もいない。
「何がいる」
久世が聞く。
花子は答えない。
「久世」
紗月の声が前からした。
「動かないで」
その瞬間だった。
『遼一』
久世の背後から、紗月の声がした。
目の前に、本物の紗月がいる。距離は二メートルもない。紗月自身も口を閉じたまま、顔色を変えている。
『遼一』
今度は少し柔らかい。普段の紗月が、何気なく呼び止めるような声だった。
久世の右肩がわずかに動いた。
「久世」
目の前の紗月が呼ぶ。
「こっち見て」
久世は彼女を見る。
『遼一、聞こえてる?』
後ろの声は、音程も息の混じり方も語尾の癖も紗月と違わない。
「返事しないで」
久世は声を出さない。
背後から一歩、足音がした。
こつ。
花子の周囲で蛇口が一斉に開いた。照明が二度明滅する。
『遼一』
三度目。
久世の身体が反射的に振り向きかけた。
「だめ!」
花子が、昨日まで聞いたどの声よりも大きく叫んだ。同時に廊下の非常扉が勢いよく閉まり、久世の背後を遮る。水音が止まり、足音も消えた。
数秒、誰も動かなかった。
「……今、振り向こうとした?」
紗月が聞く。
「少し」
「少しじゃないでしょ」
「反射だ」
「私が目の前にいるのに?」
「だから止まった」
「花子さんが止めたんでしょ」
久世は花子を見る。少女は非常扉を睨んだまま動かず、いつもより表情を硬くしていた。
「今のは後ろ連れか」
「たぶん」
「前よりうるさいって言ったな。何が変わった」
「声が」
紗月が膝を曲げ、花子と少し目線を合わせた。
「大丈夫?」
「違う」
「何が?」
「ここで勝手に呼ぶの、嫌い」
蛇口から一滴、水が落ちる。その言葉には、自分の場所へ知らないものが入り込み、誰かの声を使ったことへの不快感が滲んでいた。
久世は非常扉の向こうを確認した。誰もいない。窓にも余分な影はなく、床にも足跡はない。
「紗月。さっき俺を名前で呼んだか」
「『遼一』とは一度も呼んでない」
「録音は」
久世が録音機を止めて確認すると、二人の会話は残っていた。花子の声は以前と同じく薄い水音へ置き換わっている。そして背後から聞いた三度の『遼一』は、録音には入っていなかった。
「私にも聞こえた」
「なら、俺だけの幻聴じゃない」
「しかも、私の声で」
花子が小さく言った。
「前は、あんなのじゃなかった」
「声を使わなかった?」
「声はあった。でも、その人みたいじゃなかった」
久世は考えた。これまでの証言でも、母親や祖父、妻の声だと認識されていた。だが花子の感覚では、模倣の精度そのものが増している。
「学んでる?」
紗月が言った。
「それとも、人が『知ってる人の声で呼ぶ』って話すようになったから、そうなってるのか」
「順番を調べる」
署へ戻った二人は、その夜のうちに投稿履歴を遡った。「家族の声で呼ぶ」という具体的な記述が増え始めたのは二日前からだった。最初は一件。その後、「死んだ人の声も使う」「一番信用している人の声になる」と派生し、そのあとに今回の三件の相談が発生していた。
「また同じだね」
紗月が画面を見る。
「噂が先。体験が後」
「ああ」
「でも今度は、ルールじゃなくて人そのものに近づいてる」
久世は返事をしなかった。反射なら見なければいい。足音なら立ち止まることもできる。だが、自分が信頼している人間の声で、自分の名前を呼ばれたらどうする。
目の前に本物がいた久世でさえ、一瞬だけ振り向きかけた。その事実が、どの新しい噂よりも厄介だった。
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