第一章 第十話 『古い怪異と新しい怪異』
翌日の夕方、久世遼一と白峰紗月は、前夜と同じ三階女子トイレの前に立っていた。後ろ連れについて花子から聞けたのは、「ここにはいなかった」という一点だけだ。だが、それだけでは足りない。学校の外から来た古い怪異なのか、それとも本当に最近生まれたものなのかで、調べるべきものは大きく変わる。
「今日も呼ぶ?」
紗月が三番目の個室を見る。
「昨日と同じ方法で」
「花子さん側からしたら、二日連続で警察が事情聴取に来るんだね」
「協力してくれるなら助かる」
「そういうところ、変わらないね」
廊下の扉数と長さを確認し、録音機を置く。昨日と同じく、紗月が三番目の個室を三回叩いた。
こん、こん、こん。
「花子さん、いますか」
返事はない。十秒、二十秒と待つ。久世が時計へ目を落とした瞬間、洗面台の一番奥から水滴が落ちた。
ぽつん。
「今日は遅い」
「呼ばれたらすぐ出る義務はないだろ」
「妙に礼儀を尊重するね」
「相手の規則が分からないなら、勝手に決めない方がいい」
もう一滴。
ぽつん。
その音のあと、三番目の個室の扉が少しだけ閉じた。さっきまで完全に開いていたはずなのに、蝶番が鳴った記憶はない。二人が同時に見ると、扉の奥に少女が立っていた。
黒い髪。白い上着。赤いスカート。昨日と同じ姿だった。ただ、今日は最初から少し不機嫌そうに見える。
「また来た」
「後ろ連れについて聞きたい」
久世が答えると、花子は身体を動かさず目だけを彼へ向けた。
「昨日も聞いた」
「昨日は、ここに前からいたかどうかしか聞いてない」
「いっぱい聞いた」
「まだ足りない」
紗月が横で小さく息を吐いた。
「久世、相手が人間でもその言い方したら嫌われるよ」
「必要なことは聞く」
「嫌われないとは言ってない」
花子は二人を交互に見たあと、三番目の個室から出てきた。足音はない。鏡にも姿は映らない。
「何が知りたいの」
「後ろ連れは、どこか別の場所から来たのか。それとも、この数週間で生まれたのか」
花子はすぐには答えなかった。洗面台の前まで歩き、乾いた蛇口へ指先を置く。触れていない隣の蛇口から、一滴だけ水が落ちた。
「分かんない」
「どっちも?」
「来たところ、見てない」
「じゃあ、何なら分かる?」
少女は少し首を傾けた。
「あれ、変」
「何が」
「決まってない」
久世の目が細くなる。
「規則が?」
「いろいろ」
「姿?」
「それも」
「場所?」
「それも」
紗月がメモを取る。
「花子さんみたいなものは、普通は決まってるの?」
「普通って何」
「たとえば、自分がどこにいるか。どう呼ばれるか。何をされたら出てくるか」
花子はしばらく紗月を見た。
「だいたい」
「全部じゃない?」
「人が変えるから」
「噂で?」
「呼び方とか、やり方とか。いっぱい変わる」
久世は前日の資料を思い出した。花子を呼ぶ方法も、服装も、扉を開けるべきかどうかも年代によって違っていた。
「それでも、お前はここにいる」
「いるよ」
「三階の女子トイレ。三番目の個室。近い廊下」
「うん」
「それは変わらない?」
花子は少し考えた。
「なくなったら、変わるかも」
「トイレそのものが?」
「うん」
答えは曖昧だったが、少なくとも彼女には中心がある。噂の細部が変わっても、場所と存在の核が完全には揺れていない。
「後ろ連れには、それがない?」
「ない」
「学校じゃなくても出る」
「うん」
「住宅街でも、駅でも」
「うん」
「姿も一定しない」
「うん」
「規則も増える」
花子はそこで少し嫌そうな顔をした。
「昨日と今日で違う」
「何が?」
「後ろの決まり」
「分かるの?」
「分かるっていうより、うるさい」
紗月が顔を上げる。
「うるさいって、前にも言ってたね」
「みんな言うから」
「人が?」
「人も。後ろも」
久世がすぐに聞き返す。
「後ろ連れ自身が、自分の規則を言うのか」
「知らない」
「今、人も後ろもって言った」
「声がいっぱいするだけ」
「どんな声だ」
「同じじゃない」
花子はそれ以上説明しなかった。久世が質問を重ねようとすると、蛇口から水が続けて三滴落ちた。
ぽつん、ぽつん、ぽつん。
紗月が久世の袖を軽く引く。
「今はそこまでにしよう」
「まだ――」
「嫌がってる」
花子は紗月へ視線を向けた。表情はほとんど変わらないが、水滴が止まった。
久世も一度引いた。
「じゃあ、別の聞き方をする。お前から見て、後ろ連れは古いものに見えるか」
「古い?」
「お前より前からいたもの」
「見えない」
「なぜ」
花子は答えるまで少し時間がかかった。
「古いのは、場所を知ってる」
「場所?」
「どこにいるか、どこまで行けるか、どこから先は行かないか」
紗月が静かに聞く。
「自分の境界を知ってるってこと?」
「たぶん」
「後ろ連れは?」
「知らないみたい」
「自分がどこまで行けるかを?」
「人が言ったら、行く」
久世と紗月の視線が合った。
「三回見たら家までついてくる、っていう新しい規則みたいに?」
紗月が尋ねる。
花子は小さく頷いた。
「前は家まで行かなかった?」
「知らない。でも、今は行く」
「それは、みんながそう言い始めたから?」
「分かんない」
「分からないけど、変わったのは感じる?」
「うん」
久世は慎重に言葉を選んだ。
「じゃあ、後ろ連れは古いものが最近ここへ来たんじゃなく、最近できたものに見える?」
花子の視線が久世へ戻った。
「来たっていうより、できたみたい」
紗月のペンが止まる。
「できた?」
「まだ、できてる途中」
洗面台の鏡に二人だけが映っている。その間に花子は立っているのに、そこだけ空白だった。
「何が完成したら、できあがる?」
久世が聞く。
「知らない」
「誰が作ってる」
「知らない」
「どうすれば止まる」
「知らない」
三度続いた答えに、久世はそれ以上押さなかった。
「分かった」
花子は少しだけ目を細めた。
「今日は、それでいいの?」
「ああ。知らないことを聞いても増えない」
「昨日よりちょっとまし」
「何が」
「うるさくない」
紗月が笑いを堪えた。
「久世、改善したって」
「比較対象が昨日だけだろ」
「それでも進歩」
花子は二人の会話を見ていたが、笑わなかった。ただ、蛇口から落ちる水の間隔が少し長くなった。
その後、三人で――少なくとも久世と紗月の感覚では三人で――学校に昔から残る怪談の場所を短く確認した。夜の音楽室、理科準備室、階段の踊り場。花子は女子トイレから遠くなるにつれ、姿が少し薄くなった。廊下の中央を越えた頃には輪郭が照明のちらつきに混ざり、声も一度だけ途切れた。
「大丈夫?」
紗月が尋ねる。
「遠い」
「戻る?」
「戻る」
それだけ言うと、花子は次の瞬間には二人の横から消えていた。走った気配も、曲がり角へ入った気配もない。三階女子トイレへ戻ると、三番目の個室の扉だけが半分閉じていた。
「やっぱり、場所に縛られてる」
紗月が言う。
「少なくとも強さは距離で変わる」
「でも完全に出られないわけじゃない」
「ああ。本人も『遠い』としか言わなかった」
学校を出たあと、二人はこれまでの記録を整理した。花子は細部の伝承が変わっても、長年同じ学校、同じトイレ、同じ個室を中心に残っている。対して後ろ連れは、場所も姿も規則も一定せず、人が新しい条件を語るたび、その条件へ近づいている。
「古い怪異は、変わっても芯が残る」
紗月が言った。
「少なくとも花子はそう見える」
「後ろ連れには、その芯がまだない」
「だから新しい、と花子は感じてる」
「もっと正確に言うなら、まだ作られている途中」
久世はそこで言葉を止めた。誰が。何のために。その問いには、まだ証拠がない。
ただ一つだけ、昨日より先へ進んだことがある。後ろ連れは、どこか遠い土地から移ってきた完成済みの怪異ではないかもしれない。人の噂に押され、規則を増やし、場所を変え、今この瞬間にも形を作り続けている。
そして、もしそうなら――誰かが新しいことを言うたびに、次に起きる現実もまた変わる可能性があった。
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