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夜境捜査録 噂が現実になる夜  作者: 鈴木 明
第一章 『後ろ連れ』
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第一章 第九話 『花子さん』

翌日の午後、久世遼一と白峰紗月は、三階女子トイレに関する過去記録をもう一度洗い直していた。前夜に見た青白い手、閉じたままの個室、映像に残らない姿、存在しない五枚目の扉。どれも後ろ連れとは別の現象として考える方が自然だったが、資料の中には一つだけ、これまで聞き取りで意図的に避けていた名前があった。


 二年前、過呼吸を起こした女子生徒の記録。その欄外に、担当教員の手書きで小さく書かれている。


 ――本人は「花子さんを見た」と主張。


「やっぱり出たね」


 紗月が紙を指で押さえた。


「名前だけで決めるな」


「決めてない。でも、三階の女子トイレ、三番目の個室、女の子の声、手。ここまで揃ってると、連想はするでしょ」


「学校怪談として有名すぎる。似せた悪戯もあり得る」


 追加で卒業生と教員へ聞くと、三階女子トイレには以前から「花子さん」の話があった。細部は年代ごとに違う。三番目の個室を三回叩く、名前を呼ぶ、返事があっても扉を開けるな、逆に開けなければ失礼になる。服装まで赤いスカート、白い服、古い制服とばらばらだった。


 ただし、後ろ連れと違う点が一つある。古い卒業文集、十年以上前の生徒会冊子、教師の生活指導メモにも、断片的ながら「三階の花子」「三番目の個室」という記録が残っていた。


「こっちは、本当に昔からある」


「少なくとも学校の中ではな」


「昨日のあれが本当にその花子さんかは、まだ別問題」


「ああ」


 放課後、二人は学校側の許可を取り、再び三階へ上がった。教師を一人、階段近くで待機させ、無線の通信確認を行い、廊下の長さと扉の数を先に記録する。三番目の個室は開いていた。床は乾き、鍵も正常だった。


「今日はちゃんと開いてる」


「今はな」


「それ、私の台詞みたいになってきたね」


「元は俺だ」


 紗月が個室を確認して戻る。久世は入口脇に小型録音機を置いた。


「呼ぶ?」


「記録に一番多い方法で試す」


「警察が花子さんを呼び出す日が来るとは思わなかった」


「話せるなら証言は取れる」


「事情聴取する気なんだ」


「相手が誰でも、話せるなら同じだ」


「その発想が一番怖いかもしれない」


 時刻は十八時七分。過去記録で最も古く、最も繰り返されていた方法は、三番目の扉を三回叩き、「花子さん、いますか」と尋ねるものだった。


 紗月が一度、久世を見る。


「やるよ」


「ああ」


 こん、こん、こん。


「花子さん、いますか」


 何も起こらない。二十秒ほど待ったところで、洗面台の蛇口が一つだけ開いた。水が細く流れ出す。


「昨日は水音だけだった」


「ああ」


 水が止まり、続いて三番目の個室の内側から、爪先で床を軽く叩くような音がした。


 こつ。こつ。こつ。


 扉は開いたままだった。中には誰もいない。


「久世」


「見えてる」


 個室の奥、便器の横に、いつの間にか少女が立っていた。


 小学生くらいに見える。真っ直ぐに切り揃えた黒い髪。白い上着に赤いスカート。黒っぽい靴。肌はひどく白く、照明の下にいるのに血色がない。目は暗く、久世と紗月を見ているようで、少しだけ焦点がずれている。


 何よりおかしいのは、現れた瞬間がなかったことだった。瞬きをした覚えも、視線を外した覚えもない。それなのに、空だった場所に少女がいる。


「あなたが、花子さん?」


 紗月が尋ねた。


 少女は首だけを少し傾けた。身体は動かない。


「そう呼ぶ人はいるよ」


「あなた自身の名前?」


 返事はなかった。


 久世が一歩前へ出る。


「昨日、ここにいたのはお前か」


 少女の目が久世へ動く。首より先に、視線だけが来た。


「いたよ」


「手を出した?」


「出した」


「廊下を変えたのも?」


「変わっただけ」


「五枚目の扉は?」


「開けなかったでしょ」


「質問に答えてない」


 少女は初めて瞬きをした。閉じてから開くまでが、人間より半拍長い。


「刑事相手にそれ言う?」


 紗月が小声で言う。


「話せるなら確認する」


「本当に事情聴取してる……」


 少女の口元がほんの少し動いた。笑ったのかは分からない。


「そっちの女の人、昨日も来た」


「覚えてるの?」


「見てたから」


「どこから?」


 少女は答えず、入口脇の鏡を見る。鏡には久世と紗月が映っている。少女だけが映っていない。久世がスマートフォンを向けても、画面には空の個室しか映らなかった。


「撮られるのが嫌い?」


 紗月が尋ねる。


「入らないだけ」


「何に?」


「そっち」


 少女はスマートフォンを指した。腕を上げる動きが妙だった。肩、肘、手首がほとんど同時に動き、布だけがそのあと遅れて揺れた。


 久世はスマートフォンを下ろした。


「ここから出られるか」


 少女は答えなかった。


「学校の外へ行けるか」


「遠いのは、きらい」


「出られないわけじゃない?」


「遠い」


 紗月はその言葉をメモした。


「ここが好きなの?」


「ここは、私のところ」


「三階の女子トイレが?」


「ここと、近いところ」


「廊下も?」


「近いところ」


 答えは曖昧だった。だが、昨日の廊下の変化が偶然ではなかった可能性は高い。


 久世は本題へ移る。


「後ろ連れを知ってるか」


 少女の顔から、わずかに残っていた表情が消えた。蛇口が一つ、勝手に滴を落とす。


 ぽつん。


「知ってる?」


 紗月が重ねる。


「うるさい」


「何が?」


「後ろ」


「学校に入ってきてる?」


「前より、いる」


「何が?」


「後ろ」


「後ろ連れそのものを見たことは」


「見た」


「いつから」


 少女は答えず、三番目の個室から出た。足音がしなかった。靴底が床へ触れているのに何も鳴らない。少女は二人の間を通り、洗面台の前で止まった。鏡にはやはり久世と紗月しか映らない。


「昔からいたのか」


「昔って、いつ?」


「少なくとも数年前」


「いなかった」


「この数週間は?」


 少女は少し考えてから顔を上げる。


「そのくらい」


 紗月が少女へ向き直った。


「後ろ連れって、前からこの学校にいた?」


 少女は、今度は迷わなかった。


「あれ、ここにはいなかったよ」


 久世の表情が変わる。


「いつ来た」


「知らない」


「誰が連れてきた」


「知らない」


「どこから来た」


「知らない」


 三度続けて同じ答えが返る。少女は苛立ったように、ほんの少しだけ頬を膨らませた。


「知らないものは、知らない」


「それでいい」


 久世が即座に言った。


 紗月が横を見る。


「意外」


「分からないものを、分かったことにさせる方がまずい」


 少女は久世をじっと見た。


「変な人」


「よく言われる」


「私は初めて聞いた」


「今言っただろ」


 紗月が小さく吹き出した。


「久世、怪異にまで真面目に返さなくていいから」


「会話だ」


 少女は二人を交互に見た。まだ笑ってはいない。それでも、最初より視線の硬さが少しだけ薄れたように見えた。


「もう帰る?」


「今日はな」


 少女は久世を見た。


「後ろのこと、まだ調べる?」


「ああ」


「じゃあ、またここに来るかもしれないね」


「必要ならな」


 少女はそれを聞くと、開いた三番目の個室へ戻った。


「待って」


 紗月が呼び止める。


「何」


「本当に、花子さんって呼んでいいの?」


 少女は振り返らなかった。


「好きに呼べば」


「嫌ならやめるけど」


 しばらく沈黙があり、蛇口から一滴だけ水が落ちた。


「……別に」


 次の瞬間、個室には誰もいなかった。扉は開いたまま。床も乾いている。照明も消えず、廊下の長さも変わらない。


 久世は録音機を確認した。二人の声は入っている。しかし、少女が話した部分だけ、薄い水音のような雑音に置き換わっていた。


「証言としては使いにくいね」


「俺たちが聞いた内容は記録する」


「本当に証言扱いなんだ」


「会話した以上はな」


 校舎を出る頃には、外は完全に暗くなっていた。紗月は三階を見上げたが、昨日のような白い曇りは見えない。


「後ろ連れより前から、花子さんの記録はあった」


「ああ」


「その本人らしいものが、後ろ連れはここにいなかったって言った」


「らしいもの、だ。本人だと確定はしてない」


「そこまで疑う?」


「だからこそ、信じられる部分が増える」


 紗月は少し考えてから頷いた。二人が校門を離れたあと、三階の女子トイレの窓だけが、暗い校舎の中でほんの一瞬白く曇った。

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