第一章 第八話 『三階の女子トイレ』
翌日の夕方、久世遼一と白峰紗月は、前日に訪れた高校の三階へ戻っていた。目的は後ろ連れの追加聞き取りではない。昨夜、切り分けきれなかった別の話――三階女子トイレについて、後ろ連れとは別系統の記録があるかを確認するためだった。
学校側から渡された資料は多くなかった。生活指導記録には「夜の三階で水音がする」「誰もいない個室から声が聞こえる」という相談が過去四年間に五件。保健室には、二年前に女子生徒一人が過呼吸を起こし、「閉まっていた個室の下から手が出た」と話した記録も残っている。いずれも悪戯か思い込みとして処理され、後ろ連れという言葉は一度も出てこない。
「こっちは本当に前からある」
紗月が資料を閉じた。
「少なくとも記録はある」
「後ろ連れと違って、昔って言葉だけじゃない」
「ああ。日付も相談者も残ってる」
昨夜の手書き紙――三階の女子トイレの前では振り返るな――は、後ろ連れの規則を既存の怪談へ被せたものに見えた。しかし、元の話まで後ろ連れだったとは限らない。
午後六時を回ると、校内に残る生徒はほとんどいなくなった。教師一人が一階職員室に待機し、二人には無線機と校内鍵が渡された。女子トイレ内部の確認は紗月が中心となり、久世は廊下側から記録する。
三階へ着いた時、廊下は昨日より静かだった。部活動の声は遠く、窓の外には校庭の照明が白く滲んでいる。問題の女子トイレは廊下の一番奥にあり、その手前だけ天井灯の色が少し青白く見えた。
久世は壁の時計を見る。十八時十一分。
「昨日、紗月が見た時は異常なし」
「蛇口は全部閉まってた。床も乾いてた。個室も空」
「過去記録で共通するのは水音と声。手は一件だけ」
「後ろ連れの足音、名前を呼ぶ声、反射とは一致しない」
「今のところはな」
紗月が中へ入る。久世は入口の外で待機した。開いた扉越しに、白い洗面台が三つ、その奥に個室が並んでいる。
「異常なし。蛇口も乾いてる」
「個室」
「確認する」
一番手前。空。二番目。空。三番目の扉へ手をかけたところで、紗月の動きが止まった。
「鍵がかかってる」
「昨日は?」
「全部開いた」
紗月は扉を軽く叩いた。
「誰かいますか」
返事はない。
「警察です。中にいるなら返事をしてください」
沈黙のあと、水滴が落ちた。
ぽつん。
紗月が洗面台を見る。
「蛇口じゃない」
もう一度。
ぽつん。
三番目の個室の中からだった。
久世も中へ入る。床は乾いている。扉の下にも水はない。それなのに、一定ではない間隔で、水滴の落ちる音だけが中から続く。
「誰も立ってない」
久世が隙間を見ながら言う。
「便器の上に乗ってる可能性」
「悪戯ならな」
立ち上がった時、声がした。
『……いる?』
二人とも動かなかった。
女の子の声だった。子どもにも十代にも聞こえる。三番目の個室から、扉一枚を隔てて話しかけてきたように近い。
「聞こえた?」
「ああ」
久世は扉へ向き直る。
「中にいるなら、名前を言えるか。怪我をしているなら助ける」
返事はない。
また水滴が落ちる。
ぽつん。
「後ろ連れなら、名前を呼ぶはず」
「そう決めるな。ルールは変わってる」
「でも、こっちはこっちから聞いてる」
「ああ」
無線で職員室へ連絡し、解錠具を持ってきてもらうことにした。通信が切れた直後、廊下の照明が一つ消えた。次に、その手前。昨日と同じように、暗闇が順番に近づいてくる。
「またか」
久世が外へ出る。だが昨日とは違い、四つで止まらない。五つ、六つ。入口のすぐ手前まで闇が来たところで、最後の一灯だけが残った。
「照明制御を確認してくれ」
久世が無線へ呼びかける。
返事はない。雑音だけが返る。
紗月も廊下へ出てきた。
「先生、こっちへ来てるはずだよね」
「ああ」
「なら、もう見えてもいい」
階段は廊下の反対側にある。本来なら職員室から数分とかからない。だが非常灯の向こうに人影はない。
「長い」
紗月が言う。
久世も気づいた。昨日は遠く見えるだけで、床タイルを数えれば図面と一致した。今は違う。女子トイレから階段までにあるはずの教室扉が一つ多い。
「四教室のはずだ」
「五つある」
左側には三年一組から四組。その先に、無地の扉がもう一枚ある。
「図面にはない」
紗月がスマートフォンを確認した直後、無地の扉の向こうから爪で引っかくような音がした。
かり。かり、かり。
久世は近づかなかった。
「少なくとも、これまでの後ろ連れとは違う」
「反射も足音もない。三回も関係ない」
「別の可能性が高い」
そこで女子トイレの中から、また声がした。
『……まだ?』
今度は、さっきより幼く聞こえた。
紗月が入口へ戻る。
「誰を待ってるの?」
返事はない。
代わりに、三番目の個室の下から、白いものが滑り出した。
指だった。
青白い、小さな手。手首より先だけが隙間から出て、床へ掌をつく。爪は短く、泥も血もない。ただ、人の手にしては色が薄すぎた。
「久世」
「見えてる」
手はゆっくり指を曲げた。一度、二度。誰かを呼ぶようにも、床を確かめるようにも見える。
久世はスマートフォンのカメラを向けた。画面には個室の扉と床が映る。だが、そこに手はない。
「画面には映らない」
「私には見える」
「俺にもだ」
久世は肉眼と画面を交互に見る。肉眼では手がある。画面では空の床。同じ位置、同じ光なのに、それだけが欠けている。
その時、手が止まった。指先が久世の方を向く。
『そっちは、だれ?』
紗月が答えようとした瞬間、久世が手で制した。
「答えるな」
「後ろ連れのルール?」
「違う。分からない相手に名前を渡す必要がない」
数秒の沈黙のあと、青白い手はゆっくり個室の中へ引っ込んだ。
同時に、廊下の照明が全部点いた。
外を見ると、無地の五枚目の扉は消えている。階段までの距離も元に戻り、四つの教室扉だけが並んでいた。そして階段の方から、解錠具を持った教師が走ってくる。
「すみません、途中で無線が急に切れて……」
「ここまで何分かかりました?」
紗月が聞く。
「二、三分くらいですけど」
二人の感覚では、少なくとも十分近く経っていた。
教師立ち会いのもと、三番目の個室を外から開けた。
中には誰もいない。
便器も床も乾いている。水漏れの跡もなく、窓もない。
「鍵は?」
教師が内側を見る。
「……閉まってます」
解錠具はラッチを押すだけで、内側のつまみ自体は動かないという。誰かが中から施錠しなければ、この位置にはならない。
校舎を出たあと、紗月が三階を見上げた。
「昨日までは、後ろ連れが学校の怪談を取り込んでる可能性も考えてた。でも、あれは違うと思う」
「理由は」
「足音を合わせない。名前を呼ばない。反射に出ない。三回も関係ない。それに、あのトイレの話は後ろ連れより前から記録がある」
「廊下の異常も、昨日聞いた学校怪談に近い」
「つまり、後ろ連れが一つ増えたんじゃない」
「ああ」
久世は女子トイレに近い暗い窓を見た。
「学校には、最初から別の何かがいる」
「それが後ろ連れを嫌がってるのか、興味を持ってるのかは分からないけど」
「まだそこまで決めるな」
「分かってる」
校門を出ようとした時、三階のどこかで、水滴の落ちる音がした気がした。
ぽつん。
紗月が足を止めた。久世も聞こえたらしく、何も言わず三階の暗い窓を見上げる。そこには、誰の姿もなかった。
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