第一章 第七話 『学校の中の噂』
翌日の放課後、久世遼一と白峰紗月は再び高校を訪れていた。前日までの聞き取りでは、後ろ連れは主に通学路や住宅街で語られていた。しかし、三回の反射という新しい規則が広まってから、学校の中でも「見た」「聞いた」という話が急に増えている。生活指導の教員によれば、授業中に鏡を布で隠した生徒が二人、廊下の窓を避けて遠回りした生徒が三人、放課後の教室で「後ろから名前を呼ばれた」と泣き出した一年生までいた。
「増え方が早すぎるね」
職員室を出たところで紗月が言った。
「噂としては珍しくない」
「またそれ?」
「実際、珍しくない。学校は閉じた集団だ。共通の話題は広がりやすい」
「でも、今は話が広がるだけじゃなくて、行動まで変わってる」
「そこは分けて見る」
廊下の先では、女子生徒三人が窓際を歩きながら互いの肩を押し合っていた。一人がガラスへ視線を向けるたび、「一回」「二回」と冗談めかして数え、三回目を見る前に目を閉じて笑っている。少し離れた男子生徒は、スマートフォンを構えながら「後ろ連れチャレンジ」と呼んで動画を撮っていた。
教師が注意すると、生徒たちはすぐ散った。ただ、笑い声が消えたあとも、廊下の空気には落ち着かないものが残った。
「怖がってる人と、遊んでる人が同じ噂を育ててる」
「注意する教師もな」
「注意喚起も拡散になる?」
「『やるな』と繰り返せば、知らなかった人間も知る」
久世は掲示板に貼られたプリントを見る。そこには「不確かな噂に惑わされず、夜間は複数人で帰宅してください」と書かれていた。後ろ連れという名前は避けているが、生徒たちは何を指しているか分かっている。
放課後の聞き取りでは、同じ話が少しずつ違う形で返ってきた。「理科棟の窓には四回目が映る」「階段の踊り場だけは安全」「教室の鏡は数に入らない」「学校の中では名前を呼ばれても返事をしていい」。どれも前日までの記録にはない。誰が言い始めたのか尋ねると、「隣のクラス」「先輩」「SNS」「たぶん昔から」と答えが散った。
「学校の中に入ると、ルールが増える速度まで上がってる」
紗月がメモを閉じる。
「人が多いからだ」
「それだけかな」
「今のところは、それで説明できる」
日が落ち始めた頃、教師の許可を得て校内を見回ることになった。生徒の大半は帰宅し、部活動も順に終わっている。昼間は騒がしかった廊下が、暗くなるにつれて別の建物のように静かになった。
古い校舎ではない。改修もされている。それでも、夕方以降の学校には独特の空白がある。教室の扉は閉じ、机と椅子だけが薄暗い室内に並び、昼間なら気にも留めない換気扇や配管の音が妙に近く聞こえる。
「こういう場所なら、怪談が増える理由は分かる」
紗月が言った。
「音源が多い。人の目が少ない。距離感も狂いやすい」
「情緒のない説明」
「説明に情緒はいらない」
「でも、怖いでしょ」
「状況としてはな」
渡り廊下へ差しかかったところで、後ろから足音がした。二人とも同時に立ち止まる。
足音も止まった。
紗月が久世を見る。
「聞こえた?」
「ああ」
数秒待つ。何も続かない。
「行くぞ」
二人が歩き出すと、また二歩、三歩と音が続いた。
久世はすぐ振り返った。廊下の先には誰もいない。教室の扉も閉じたまま。窓に映るのは二人だけだった。
「今のは?」
「上だ」
久世が天井を見る。少し遅れて、二階上の廊下から運動靴の音が聞こえた。部活動帰りの生徒が走っているらしい。
「反響?」
「可能性が高い」
「学校って便利だね。怪異にも、言い訳にも」
「だから確認する」
そのまま二階、三階と歩いた。ところどころで照明が自動消灯し、二人が近づくと再び点く。窓の外はすっかり暗くなり、ガラスは鏡のように校内を映していた。
三階の中央廊下で、紗月が足を止める。
「さっきより長くない?」
「何が」
「廊下」
久世は前を見る。突き当たりまでは五十メートルほど。校内図で確認した距離と大きくは違わない。
「見え方の問題だ」
「そうかもしれない」
歩き出す。十歩、二十歩。突き当たりの非常灯がなかなか近づかないように感じた。
「……久世」
「分かってる」
二人は同時に止まり、歩数を数え直した。床のタイル一枚の寸法と廊下の長さを確認すると、数字は図面と矛盾しない。視覚的に遠く感じるだけだった。
「疲れてる?」
「お前も同じなら、それだけじゃない」
「じゃあ、照明?」
「可能性はある」
そこで教室の中から、机を引くような音がした。
扉を開けると誰もいない。窓は閉まっている。机も乱れていない。
「古い学校怪談なら、ここで『誰もいない教室から音がする』だね」
「元からあるのか?」
「昼の聞き取りで二人が言ってた。夜の三階は机が動くって」
「後ろ連れとは別だ」
「今のところは」
紗月が久世の言葉を真似た。
さらに進むと、壁際の掲示板に手書きの紙が貼られていた。誰かがノートを破って作ったらしい。
――三階の女子トイレの前では振り返るな。
久世が紙を剥がす。
「新しい紙だな」
「後ろ連れ?」
「そう見せたいだけかもしれない」
近くにいた清掃員へ確認すると、昼過ぎにはなかったという。誰が貼ったかは不明だった。
「三階の女子トイレって、昔から何かある?」
紗月が尋ねると、清掃員は少し嫌そうな顔をした。
「昔からってほどじゃないけど、子どもたちはいろいろ言いますよ。誰もいないのに水が出るとか、個室から声がするとか。学校なんてそんなものでしょ」
「後ろ連れの話と一緒?」
「それは最近でしょう。トイレの方は前から聞きます」
久世と紗月は目を合わせた。少なくとも今の証言では、後ろ連れとは別の話だった。
女子トイレの入口まで行くと、中は無人だった。許可を取って紗月だけが確認し、久世は廊下に残る。数十秒後、紗月が出てきた。
「何もない。水も止まってる。個室も全部空」
「紙だけか」
「今はね」
戻ろうとした時、廊下の奥で照明が一つ消えた。次に、その手前が消える。さらに一つ。暗闇が順番にこちらへ近づいてくるように、天井灯が一列ずつ落ちていった。
「自動消灯?」
紗月が聞く。
「普通なら区画ごとだ」
二人が動かないまま見ていると、四つ目の照明が消え、そこで止まった。非常灯だけが緑色に光っている。その暗がりの向こうから、足音が一つ聞こえた。
一歩。少し遅れて、もう一歩。
久世は懐中電灯を向けたが、誰もいない。紗月が窓を見る。反射には二人しか映っていない。
「後ろ連れ?」
「まだ決めない」
「じゃあ、何」
「学校だ」
「それ、説明になってる?」
「学校の中には、後ろ連れ以外の話もある」
久世はさっき剥がした紙を見る。
「今、全部を一つにすると危ない」
紗月は少し考えてから頷いた。
「古い話と、新しい話を混ぜたら、どっちが変わったのか分からなくなる」
「ああ」
校内を出る前、二人はもう一度教師から過去の学校怪談について聞き取った。音楽室の足音、理科準備室の影、三階の女子トイレ、階段の数が合わなくなる話。後ろ連れより前から語られていたものは確かに存在する。だが、ここ数日、その古い怪談に「後ろを見るな」「名前を呼ばれても返事をするな」といった後ろ連れの規則が混ざり始めていた。
「逆もあるね」
校門を出ながら紗月が言った。
「何が」
「後ろ連れに、学校の怪談の形が混ざってる。廊下が伸びるとか、教室から音がするとか」
「学校の中で語られるから、学校向けに変わってるだけかもしれない」
「噂が場所に合わせて着替えてるみたい」
「表現は嫌いだが、意味は分かる」
紗月は振り返って校舎を見た。三階の窓には、暗いガラスが並んでいる。その一番端、女子トイレに近い窓だけが、ほんの一瞬白く曇ったように見えた。
「今、何か見えた?」
久世が尋ねる。
「分からない」
「なら、分からないままにしておけ」
「うん」
紗月は視線を戻した。後ろ連れは学校の中へ入り込んだのか。それとも、学校の中に以前からいた別の何かが、騒がしくなった噂へ反応しているのか。今はまだ、その二つを同じ名前で呼ぶべきではなかった。
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