9話『誰にも書き換えられない未来』
燃える《運命の書》から。
王太子ティベルト――『死亡』。
その文字が、一文字ずつ静かに消えていく。
誰にも覆せなかった運命。
それが今、世界そのものから消え去ろうとしていた。
続いて。
レティシア・ヴァレンティア――『死亡』。
その文字もまた、炎の中へ溶けるように消えていく。
静まり返った病室。
誰もが息することを忘れていた。
「未来が……」
アルディスが震える声で呟く。
「消えていく……」
国王も。
エミリカも。
医師も。
誰もが燃え続ける《運命の書》へ視線を奪われていた。
ただ、一人だけ。
「レティシア!」
ティベルトだけは違った。
彼は運命など見ていない。
世界など見ていない。
腕の中にいる少女だけを見つめていた。
「お願いだ……」
震える声。
「もう一度だけ……」
彼女の頬へ手を添える。
「目を覚ましてくれ」
ぽたり。
一粒の涙がレティシアの頬へ落ちた。
その瞬間だった。
レティシアの長い睫毛が震えた。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
瞼が開く。
翡翠色の瞳が、最初に映したのは。
涙でぐしゃぐしゃになったティベルトだった。
「……ティベルト」
その一言で。
ティベルトの世界は止まった。
「よかった……」
何度も。
何度も。
言い続ける。
「本当に、よかった……」
レティシアは涙を浮かべながら微笑んだ。
「はい」
ティベルトは彼女を抱き締める。
強く。
壊れてしまいそうなほど強く。
もう王太子の姿ではなかった。
一人の青年が、子どものように泣いていた。
レティシアも静かに彼の背へ腕を回す。
「心配をおかけしました」
ティベルトは首を振った。
「生きていてくれた……それだけでいい」
二人は互いを抱き締めたまま泣き続けた。
その姿を見て。
エミリカも涙を流していた。
「やっと、素直になれましたね」
その時――
燃えていた《運命の書》が最後の光を放った。
そして。
誰も触れていないページが、ひとりでに開いた。
文字が浮かび上がる。
静寂の中。
全員が、その一文を見つめた。
『レティシア・ヴァレンティア』
『王太子ティベルト』
『二人は生涯を共にする』
アルディスが崩れ落ちた。
「運命が……」
震える声。
「書き換わった……」
しかし。
国王は静かに首を横へ振る。
「違う」
燃え尽きようとする《運命の書》を見つめる。
「運命が書き換わったのではない」
静かな沈黙。
「二人が――未来を変えたのだ」
その瞬間。
《運命の書》は音もなく灰になった。
世界を縛り続けた書は。
二度と戻らなかった。
◇
三日後。
王城大広間には、再び全貴族が集められていた。
あの日――婚約破棄が宣言された場所だった。
壇上へ立ったのは国王。
その隣にはティベルト。
そして、私。
国王は静かに告げる。
「レティシアの婚約破棄および追放は本日をもって無効とする」
場内が揺れた。
「さらに――《運命の書》による爵位・婚約・裁定制度を、すべて廃止する」
どよめきが走る。
数百年。
王国を支配してきた制度が。
今日、終わった。
国王は玉座から立ち上がる。
貴族一人一人を見渡しながら言った。
「人は運命に従うために生きるのではない。未来を選ぶために生きる。それが今日からの、この国のあり方だ」
一瞬の静寂。
最初に拍手したのはエミリカだった。
その拍手は。
やがて大広間全体へと広がっていく。
誰もが立ち上がる。
その拍手は。
二人の未来を祝福する音のようだった。
◇
「左腕は動かない。左目も見えない」
ティベルトは苦く笑った。
「もう昔みたいには、君を守れないかもしれない」
私は首を横に振る。
「片手でも抱きしめてもらえます」
「レティシア……」
ティベルトは胸元から、小さな箱を取り出した。
少し角が擦れている。
何度も開いては閉じた跡が残る、小さな箱。
「本当は――」
ゆっくり息を吐く。
「君が二十三歳になる誕生日に渡すつもりだった」
箱を見つめながら笑う。
「結婚をして、君と朝食を食べて、くだらないことで笑って、子どもに振り回されて、気づけば白髪になっている。そんな毎日を想像していた」
彼の声が少しだけ震える。
「そんな未来を、当たり前みたいに信じていた」
私はもう涙を堪えられなかった。
「でも、運命の書を見た日。その全てを失った。だから――君が笑っていてくれるなら、それでいいと自分に言い聞かせた……」
静かな沈黙。
「……無理だった」
そして彼は、小さく笑った。
「君がいない未来だけは。どうしても、幸せだと思えなかった」
ゆっくり片膝をつく。
左腕は思うように動かない。
それでも精一杯、指輪を差し出す。
「レティシア・ヴァレンティア」
その名を呼ぶ声は、とても優しかった。
一度だけ息を吸う。
「君と出会えたことが、俺の人生で一番の奇跡だった。だから、これからも、その奇跡を一緒に守り続けたい」
まっすぐに私だけを見ている。
「俺と結婚してください」
私は泣きながら笑った。
涙で前が見えない。
それでも迷わなかった。
「はい」
一歩近づき。
そっと彼の頬へ触れる。
「今度は絶対に離しません」
私はティベルトを抱き締めた。
婚約破棄されたあの日。
あなたは私を生かすために嘘をついた。
今日。
私はあなたと生きる未来を選んだ。
今度こそ失わないように。
この温もりを、生涯離さないように。
◇
五年後――
「お母さま!」
小さな足音が春の庭を駆ける。
銀色の髪を揺らしながら、幼い娘が花束を抱えて飛び込んできた。
「見て! こんなに咲いてた!」
私はしゃがみ込み、娘を優しく抱きしめる。
「ええ。本当にきれいね」
少し離れた場所で、その光景をティベルトが穏やかに見つめていた。
左腕は、もう昔のようには動かない。
左目の視力も戻らなかった。
それでも。
彼は今、誰より幸せそうに笑っていた。
「お父さま!」
娘は勢いよく飛びつく。
「高い、高い!」
「まいったな」
苦笑しながら右腕だけで抱き上げる。
「片手でも、お父さまは世界一なんだから!」
その言葉にティベルトは思わず笑った。
「それは誰が教えた?」
娘は得意そうに答える。
「お母さま!」
私は少し照れたように笑う。
「本当のことですから」
三人の笑い声が、春風に乗って庭いっぱいへ広がった。
やがて娘は花を追いかけ、また元気よく駆け出していく。
その背中を見送りながら、ティベルトはそっと右手を差し出した。
私は何も言わず、その手を重ねる。
指輪が春の日差しを受け、小さく光った。
「ねえ、ティベルト。未来って、本当に不思議ですね」
「そうだな」
「あの日は、明日さえ来ないと思っていました。でも今は――」
ティベルトを見つめる。
「こんな未来が待っていました」
ティベルトは優しく頷いた。
「未来は見えないからこそ、一緒に歩いていける」
私は彼を見上げる。
「もし、もう一度人生をやり直しても。私は、あなたを選びます」
ティベルトが少しだけ目を細めた。
「俺もだ」
《運命の書》は二人を結ばなかった。
それでも最後まで互いの手を離さなかった。
だから、この未来がある。
明日も。
十年後も。
百年後も。
たった一人の相手を選び続ける。
それは、誰にも書き換えられない、二人だけの未来だった。




