第96話 vs.討伐軍 ㉟ -セラド戦-
「そんなことは関係ない」
「何っ!?」
ティターニアは、苦悶の声を上げ続けるエルフを一瞥することもなく、ただ淡々と話す。
その声に揺らぎは感じられなかった。
「童は『世界樹の盟』により、此処に呼ばれた。召喚した者の状態がどうであれ、その際に命じられた『敵を排除せよ』という約束を、我が魔力が尽きるまで果たすのみ」
その言葉と共に、先ほどまで硬直していたティターニアから、再び背筋が凍るほどの濃厚な殺気が放たれた。
彼女の背後では『滅びの魔法』が、再び白く輝き始める。
「御屋形様、お下がりください!」
鬼一は咄嗟に、俺の前に立ち塞がった。
「鬼一! やめろ、お前のその体じゃ……!」
「問題ありませぬ」
問題あるに決まっている。
鬼一の腕は震えており、膝は今にも崩れそうであった。
次の一撃、ましてやあの巨大な魔法陣から放たれる攻撃が受けきれるはずもない。
そんなことは、誰の目から見ても明らかであった。
「消えろ」
ティターニアが、腕を振るう。
背後の巨大な魔法陣が、再び白く輝き始めた。
止まっていた滅びが、動き出したのだ。
その絶望の淵。
突然、《《そいつ》》が戦場に現れた。
「ひぇぇぇっっ! マスター、置いてかないでぇぇぇぇ!」
場違い極まりない、気の抜けたような、情けない泣き声。
背後から聞こえてきた情けない声に、俺は思わず振り向いた。
通路の奥から、白黒の長い袖をばたばた振り回しながら、バフォメットが泣き顔で走ってくるのが見える。
「マスターぁぁ! 怖いですぅ! 通路が暗いですぅ! あとなんかすごい音がしましたぁ! 私を一人にしないでくださいぃぃ!」
「おい、こっちへ来るな!」
俺はバフォメットを必死に止めようと叫ぶ。
今来れば、魔法の巻き添えで死んでしまう。
しかし、バフォメットは止まらなかった。
小さな身体からは想像もできない速度と空間を縫うような足捌きを使い、俺たち元へと滑り込んできた。
「滅べ」
その直後。
ティターニアの腕が、無慈悲にも振り下ろされる。
彼女の背後で臨界点に達していた巨大な魔法陣から、上位精霊の四元素魔法を融合させた『滅びの光』が、俺たちに向かって一直線に放たれる。
音すらも光に呑み込まれ、世界から音が消えた。
視界のすべてが、純白の破壊に塗り潰されていく。
「くっ……!」
俺は思わず、強く目を閉じた。
鬼一が俺を庇うように前に出てくれたのがわかったが、この威力の前にあっては、全員まとめて蒸発する未来しか想像できなかった。
――しかし。
……一秒。
……二秒。
……三秒。
どれだけ時間が経っても、覚悟していた衝撃も、身体が炭化するほどの熱も、引き裂かれるような痛みも、何も感じない。
「……え?」
俺は、恐る恐る目を開けた。
そして、目の前に広がる信じられない光景に、息を呑んだ。
「……なっ」
俺を庇って前に出ていた鬼一も、何が起きたのか全く理解できず、喰血を構えたまま完全に固まっている。
それもそのはずであった。
俺と鬼一の目の前。
そこには、つい数秒前まで泣き叫んでいたはずのバフォメットが、立っていた。
いや、ただ立っているのではない。
バフォメットが、右の白い腕――たった片手だけで、ティターニアの放った『滅びの魔法』を受け止めていたのだ。
白と黒の袖が、魔力の奔流にはためいている。
巨大な光の濁流が、バフォメットの小さな掌の一点に集約され、それ以上、一ミリたりとも前へ進むことができずに、空間を歪ませながら悲鳴を上げているようだった。
バフォメットの頭がゆっくりと上がる。
先ほどまで涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった表情は、どこにもない。
そこに浮かんでいたのは、獰猛な笑みだった。
「なんだぁ、この幼稚な魔法は?」
それは、間違いなくバフォメットの声だった。
だが、その声色には、先ほどのオドオドとした卑屈な響きは微塵も残っていない。
傲慢で、乱暴で、不遜な声。
「三流の召喚者に呼ばれたから、本来の力が出せてねぇってか? 呆れて反吐が出るぜ」
「バフォメット……?」
俺は困惑し、思わずその名前を呼んだ。
さっきまで「ひぃぃ!」と泣きながらこちらに走ってきたバフォメットが、あの精霊女王の魔法を片手で受け止めている?
目の前で起きている現実が処理しきれず、完全にフリーズしかけていた。
「マスターよぉ」
滅びの魔法を片手で軽々と押さえ込んだまま、バフォメットが背後を振り返り、俺に問いかけてきた。
右の白い瞳と、左の黒い瞳のオッドアイ。
その瞳孔は鋭く細まり、狂気にも似た凶悪な笑みが、中性的な美しい顔にへばりついている。
「な、なんだ?」
俺は、あまりの気迫に思わず後ずさってしまった。
性格が変わっている。
いや、これは変わりすぎていていないか?
「こいつ、ヤっちまってもいいのか?」
バフォメットは、ティターニアを顎でクイッと指しながら、軽い口調で聞いてきた。
「……か、勝てるのか?」
俺が思わず聞き返すと、バフォメットは心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「けっ、こんな奴に負けるかよ。それに、こいつは今、本来の力じゃねぇ」
バフォメットが掌に少しだけ力を込める。
「ピキィッ!」という音と共に、ティターニアの放った滅びの魔法は粉々に砕け散り、光の粒子となって霧散してしまった。
バフォメットは、精霊女王の魔法を易々と片手で握りつぶしてしまった。
「どこぞのヘッポコ召喚士が無理矢理、不完全な術式で召喚したせいでな。《《こんなの》》は、ただ魔力を垂れ流してるだけの張りボテだ。」
「そ、そうか……」
俺はこの状況に戸惑いながらも考える。
いくら敵対しているとはいえ、相手は自然界の頂点に立つ精霊の女王だ。
「だが、精霊の親玉を殺すのはまずいだろ……。世界樹の怒りを買ったり、自然界のバランスが崩れたりしないか?」
俺の懸念に、バフォメットはティターニアへ視線を向け、ニィッと口角を吊り上げた。
「なあに、ここで消えても死ぬわけじゃねぇ。どうせ本体は世界樹だろ?」
バフォメットは、精霊女王へ問いかけるように言った。
「なあ、女王サマ?」
「……」
ティターニアは答えない。
ただ、その白銀の瞳が、初めてバフォメットを真正面から捉えた。
ティターニアは、己の魔法を片手で握り潰された事実と、底知れぬ力を持つ目の前の魔物に対し、明確な警戒の色を示していた。
「じゃあ、やっちまってくれ!」
俺は、一切の躊躇を捨ててバフォメットに命令を下した。
ここで精霊女王を倒さなければ、俺たちが殺されるだけだ。
「了解!」
鬼一は、その光景を呆然と見つめていた。
自分が命を懸けて止めようとした魔法が、あまりにも容易く砕かれたことに、武人として悔しさがないわけではなかった。
だが、それ以上に胸を満たしたのは、歓喜だった。
御屋形様の新たな一手。
この絶望的な戦場に投じられた、真の切り札。
「……御屋形様」
鬼一は、血に濡れた口元を緩めた。
「また、とんでもない者をお作りになられましたな」
「ああ、俺もそう思う……」
バフォメットは前へ出る。
右半身から聖なる白光。
左半身から禍々しい黒炎。
その二つが混ざり合い、広間の空気をねじ曲げる。
「さあ、女王サマ」
バフォメットは首を鳴らした。
「格の違いってやつを、教えてやるよ」
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