第75話 vs.討伐軍 ⑭ -セラド戦-
第三階層へと続く通路は、これまでの森や地底湖とは打って変わり、完全な静寂と暗闇に包まれていた。
人工的に削り出されたような冷たい石壁。
松明の灯り一つなく、一歩足を踏み出すたびに、冷たく湿った空気が肌に纏わりついてくる。
闇の中を、斥候であるミロが先頭に立ち、そのすぐ後ろをネムが身を寄せ合うようにして歩いていた。
ミロは獣人特有の鋭い暗視能力と聴覚を限界まで研ぎ澄まし、通路に張り巡らされているかもしれない罠を警戒している。
だが、彼の神経を削っているのは、罠への恐怖だけではない。
背後を歩いている、セラドの存在だ。
セラドは明らかに苛立っているようだった。
リュネがあの後どうなったのか、彼らには分からない。
この通路へと足を踏み入れてから少し経った後、後方から凄まじい爆発音した。
それに、尋常ではない熱波が、歩いている三人にも伝わってきた。
だがそれっきり、リュネがセラドに追いついてくる気配は一向にない。
あの傲慢な女エルフが、あの魔物に後れを取ったのだろうか。
だとしたら、自分たちはこれからどれほど恐ろしい魔物の住処へと向かっているのか……。
「……遅い」
不意に、背後から底冷えのするような低い声が響いた。
ミロとネムの肩がビクッと跳ねる。
「チンタラと歩きおって。……おい、ゴミ共。さっさと進め」
セラドの苛立ちは、徐々に高まりつつあった。
彼は、リュネが敗北したなどとは露ほども思っていない。
ただ、羽虫一匹を処理するのに手こずっている部下と、目の前でノロノロと怯えながら歩く奴隷たちに腹を立てていた。
「す、すいません、ご主人様。ですが、この先はボスの部屋に続く通路のはず……どんな罠が仕掛けられているか分かりません。慎重に進まないと……」
「口答えをするな! 罠があるなら、貴様らがさっさと踏み抜いて潰せばいいだけの話だろう」
セラドは続けて言い放った。
「私の時間をこれ以上無駄にするな。肉壁として、生きている価値くらい示してみせろ」
ミロは奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
言い返したかった。
だったら、てめぇが前を歩けよ。
俺たちは道具じゃねぇ。
罠を踏むために生まれてきたわけじゃねぇ!
喉元まで出かかった言葉を、必死に噛み殺す。
首輪に刻まれた呪縛がある限り、言い返すことすら許されない。
ミロは屈辱に顔を歪めながら、黙って歩みを早めるしかなかった。
ネムは、震えるミロの背中を見つめながら、胸元にそっと手を当てた。
布越しに伝わってくる、小さく硬い石の感触。
――【解呪の秘石】。
奴隷の首輪を破壊できるかもしれない、最後の希望。
けれど、今は使えない……。
ここで使っても、狭い通路の中で、背後にいるセラドから逃げ切れるわけがない。
瞬く間に殺されてしまうだろう。
そして何よりも、ガルムがいない。
ガルム……どうか、無事でいてね……。
ネムは心の中で強く祈った。
ここで自分たちだけが助かろうとするなど、絶対にできない。
三人で自由になる。
そう決めたのだ。
ネムは、唇を噛みしめた。
ガルムが生き延びて、どこかで合流できると信じるしかない。
やがて、果てしなく続くと思われた暗黒の通路の先に、うっすらとオレンジ色の光が見え始めた。
「……出口だ」
ミロの張り詰めた声に、ネムも息を呑む。
警戒しながら通路を抜けると、これまでの自然の洞窟や湖とは全く異なる空間だった。
巨大なドーム状の広間。
壁面には一定の間隔で松明が焚かれ、赤々とした炎が地面を照らしている。
獣人の嗅覚を持つミロには、この広間に漂う血の匂いを感じていた。
この場所で、多くの命が奪われたのだろう。
そして、その広間の中央。
彼らを待ち受けるように、十の影が横一列に並んでいた。
「ギ、ギギ……ッ」
「グルァ……!」
喉の奥で威嚇の音を鳴らす、緑色の皮膚を持った小柄な魔物たち。
粗末な腰布を巻き、槍や棍棒を握りしめている。
冒険者になれば誰もが狩るであろう、最弱の代名詞――『ゴブリン』だ。
「……ゴブリン? ダンジョンの最奥で、こんな魔物が……?」
ミロは思わず呟く。
普通なら、ゴブリンなど恐れる必要もない。
その時だった。
「待って、ミロ……! 油断しないで、あの子たち、何かおかしいわ!」
魔力感知に長けたネムが叫ぶ。
よく観察すると、確かにおかしい。
本来、ゴブリンという魔物は知性が低く、常に落ち着きなく動き回り、本能のままに群れて襲いかかってくる烏合の衆だ。
俺たちはまだしも、セラドのような強大な力を感じれば、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すのが普通である。
だが、目の前にいる十体のゴブリンたちは、誰一人として逃げようとせず、戦闘態勢を取っていた。
しかも、その肉体は極限まで引き締まっており、握りしめられた武器の穂先は、ブレなくミロたちを捉えている。
そして何より、その瞳だ。
狂気でも恐怖でもない。
ただ純粋な「殺意」と「戦意」だけが、冷たく宿っているに見える。
それはまるで、熟練の『兵士』の雰囲気だった。
「な、なんだよこいつら……本当にゴブリンかよ……っ」
「ミロ……あの子たち、魔力の流れが揃ってる。まるで、誰かに統率されてるみたい……」
「誰かって……」
ミロの視線が、さらに奥へ向かう。
そこに、《《いた》》。
ズンッ……! と。
そいつの圧で、空間そのものが重圧で沈み込んだかのように錯覚する。
「…………ッ!!」
ミロの口から、ヒュッと息が漏れた。
ゴブリンの隊列の奥。
松明の炎に照らし出されたのは、身長二メートルを優に超える、赤銅色の巨躯を持つ魔物だった。
筋骨隆々たる肉体は岩のように硬く、頭部には天を突く一本の黒い角。
腰には、禍々《まがまが》しい気配を放つ大太刀を差している。
そいつがただそこに立っているだけで、大気が悲鳴を上げているようだった。
「なんだよ……あの鬼……」
ミロは、ダガーを持つ手が震えるのを止められなかった。
本能が警鐘を鳴らしている。
あれはダメだ。
関わってはいけない。
目が合っただけで魂ごと両断されるような、絶対的な『死』そのもの。
ミロとネムが恐怖のあまりその場にへたり込みそうになった時、背後から、コツ、コツと足音が響いた。
「ほう……」
セラドが、ミロたちの横を通り抜け、前へと進み出た。
彼は、手前に整列している十体の精悍なゴブリンなど、まるで景色の一部のように視界から完全に除外していた。
エメラルドの瞳が捉えているのは、ただ一人。
ゴブリンの背後に佇む鬼の姿だけだった。
「なるほど。この魔力圧、そして威容。……先ほどの羽虫が言っていた魔物は貴様だな」
その口元が、歓喜と傲慢に歪む。
「貴様が、このダンジョンのボスということか」
セラドは、目の前の鬼こそが、この迷宮の最強にして最後の主であると確信した。
第三階層。
ついに、エルフの魔術師と鬼人将軍が相対するのだった。
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