第73話 vs.討伐軍 ⑫ -地底湖の戦い-
静寂の氷結世界に、微かな亀裂音が響く。
「……?」
リュネの足が止まる。
聞き間違いではない。
氷が鳴った……?
彼女はゆっくりと振り返る。
氷の湖面の中央。
レイが沈んだ、まさにその場所で。
白く凍りついた氷河の表面に、一本の細い亀裂が入っていた。
「……まだ足掻いているのかしら?」
リュネは嘲るように笑った。
「無駄なことを……。私の氷は、あなたごときが破れるものでは――」
そう言い終えるより早く。
ピシピシピシピシッ!
一本だった亀裂が、枝分かれした。
「……っ?」
リュネの眉が、わずかに動く。
完全に凍結されているはずの湖面に、次々と亀裂が走る。
ピシピシピシピシッ!
バキバキバキバキバキィッ!!!!
たった一本だったヒビが、まるで蜘蛛の巣のように、瞬く間に分厚い氷河の全体へと広がっていく。
それだけではない。
そのヒビの奥――分厚い氷の底から、異常な音が響き始めた。
ジュワァァァァァァァァッ……!!
「な……に?」
リュネは目を見開く。
それは、氷が軋む音ではない。
水が割れる音でもない。
ボコッ。
ボコボコボコッ!
それは、水が煮え滾る《《沸騰音》》だった。
リュネの表情から、初めて余裕が消える。
彼女の氷は、ただ水を凍らせただけのものではない。
絶対零度に限りなく近い冷気で、水そのものの運動を殺し、魔力ごと封じる氷結魔法だ。
「ばかな……私の、私の氷が……溶けている!?」
リュネが一歩、後ずさる。
次の瞬間。
ズドォォォォォォォォンッ!!!!!!
地底湖の中央が、爆発した。
数メートルもの厚さを持つ氷河が、内側から膨れ上がり、限界を迎えた瞬間、巨大な爆弾のように吹き飛んだ。
氷塊が砲弾のように宙を舞い、灼熱の水蒸気が白い竜巻となって地底湖を覆っていく。
「くっ……!」
リュネは咄嗟に氷の盾を展開する。
だが、吹き荒れる蒸気の熱量は想定以上だった。
頬や喉が焼ける。
先ほどまで凍てついたはずの世界が、まるで火山の火口にでも変わったかのように、赤く、熱く、轟いていた。
そして。
爆発の中心から、一条の紅蓮の光が飛び出してきた。
「あははははっ! あー、死ぬかと思った!」
リュネは言葉を失う。
それは、氷漬けにして湖底へ沈めたはずのセイレーン。
だが、その姿は先ほどとは全く異なっていた。
透き通るような蒼かった髪は、燃え盛る炎のような『真紅』へと染め上がっている。
グラデーションが美しかった翼も、火の粉を散らす灼熱の翼へと変貌していた。
彼女の周囲の空気が歪み、まるで陽炎のように揺らめいている。
「あ、あり得ない……! 水棲の魔物が、炎を纏うなど……っ!」
「ふふっ、驚いた?」
レイは、空中で炎の翼を羽ばたかせながら、見下すようにリュネを嘲笑った。
「あたしは、ただのセイレーンじゃないから」
「なんですって……?」
「あたしは、マスターに合成してもらった特別製なの!」
『灰被りの魔女』の遺品をボンドに合成された、水と炎の相反する二つの極地を内包するユニーク個体。
極寒の氷の底で死を悟った瞬間、彼女の中に眠っていた『炎』が完全に覚醒したのだ。
「あんたの氷、すっごく冷たかったよ」
レイはにこりと笑った。
だが、その笑顔に温度はない。
「だから今度は、あたしが温めてあげる!」
レイが両手を広げると、彼女の周囲に無数の巨大な火球が出現した。
「そんな炎ごときで、私の【絶対氷結】を凌駕したつもり!? いいでしょう。今度こそ、魂まで凍らせて差し上げますわ!」
リュネの両手に、膨大な魔力が集まる。
白い靄が再び濃くなり、足元に氷片が浮き上がり始めた。
詠唱が始まる。
先ほど以上の冷気であった。
この地底湖そのものを、今度こそ完全な氷墓へ変えるための最大魔法。
だが、レイは動かなかった。
火球を放つでもなく、水流を操るでもなく。
ただ、そっと目を閉じた。
そして、両手を胸の前で組む。
「――♪」
地底湖に清らかで、神聖な『歌声』が響き渡る。
それは、戦場には全く不釣り合いな、魂を震わせるような美しい旋律。
怒りも、殺意も、熱も。
そのすべてを透明な刃へ研ぎ澄ませたような歌声。
聞いた瞬間、リュネの背筋に悪寒が走る。
「精神干渉かっ……!」
セイレーンの本領は、水魔法でも炎魔法でもない。
歌声による『精神干渉魔法』だ。
あれだけの魔力を持つ魔物の精神攻撃をまともに受ければ、いかに高位の魔術師といえども、意識を侵食される危険がある。
「ちっ、小賢しいですわね!」
リュネは詠唱していた氷魔法を即座にキャンセルし、全魔力を『耳』と『精神』の防御障壁へと回した。
物理的な隙はできるが、致し方ない。
精神干渉さえ凌げば、次こそ確実に氷漬けにしてやる。
リュネは精神障壁の展開に全神経を集中させた。
だが。
レイの口元が、わずかに吊り上がる。
歌は、攻撃ではなく《《釣り餌》》だった。
それこそが、レイの仕掛けた罠なのだ。
リュネが精神防御に意識を割いた、その一瞬。
彼女の足元の湖面が割れた。
「クーちゃん、お願いっ!」
ズパァァァァァンッ!!
「えっ――」
リュネが反応するより早く、巨大な触手が水中から飛び出した。
一本ではない。
二本、三本、四本。
ぬらりとした吸盤が、リュネの足首に絡みつく。
「キャアアアアッ!?」
リュネの悲鳴が周囲に響いた。
第二階層に潜ませていた、もう一匹の魔物。
氷の下でじっと耐え忍んでいた、『クラーケン』の足であった。
数本もの太く吸盤のついた巨大な触手が、リュネの細い身体に巻き付き、ギリギリと骨が軋むほどの力で完全に拘束する。
「この……っ! 離しなさい! 下賤な魔物風情が、私に触れるなぁ!」
リュネは魔力を振り絞り、触手を凍らせようとする。
だが、既に遅かった。
この隙は、レイにとって十分すぎる時間だった。
空を見上げたリュネの瞳に映ったのは、両手に二つの巨大な火球が出現している。
火球というより、小さな太陽であった。
レイは笑っていた。
「さっき言ってたよね」
両手の炎が、さらに膨れ上がる。
「羽をむしるとか、飾るとか」
「ま、待っ……!」
「あと、あたしの蛙たちも殺した」
レイの瞳が、真紅に燃える。
「だからさ」
彼女は、両手を振り下ろした。
「まとめて、焼けろ」
極大の火球が落ちた。
「――『紅蓮の処刑』!!」
ドゴォォォォォォォォンッ!!
レイの両手から、太陽のような極大の火球が撃ち下ろされた。
「あ、ああああああああっっっ!!」
爆炎がリュネを呑み込んだ。
クラーケンの触手ごと、リュネの身体が燃え上がる。
「セラド様ぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
圧倒的な炎の暴力の前に焼かれ、肉が爆ぜ、骨が灰へと変わっていく。
数秒後。
爆炎が収まった。
地底湖に、焦げた匂いが漂う。
そこには、先ほどまで高笑いを上げていたリュネの姿はどこにもなかった。
ただ、風に吹かれてパラパラと崩れ落ちる、真っ黒な『消し炭』の山があるだけだった。
「……ふぅ」
レイの髪が、真紅から少しずつ蒼へ戻っていく。
纏っていた炎も、夜明けの残り火のように静かに小さくなっていった。
ここに『銀葉の魔術団』のリュネは、湖上の歌姫によって焼き尽くされた。
ボンドのダンジョンは、Bランクパーティの一角を、確かにへし折ったのである。
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