第45話 深海の塔 -第2層- ⑥
開いた隙間から最初に流れ込んできたのは、濃い潮の匂いだった。
深海の底をそのまま切り取って煮詰めたような、生臭く、冷たく、肺の奥へ沈んでくる空気。
次いで、ひやりとした風が俺の頬を撫でた。
いや、風ではない。
巨大な水塊が生む気圧の揺らぎだ。
そして、開いた扉の先に現れたのは、ただの「部屋」と呼ぶにはあまりにも広大で、異様な空間だった。
「ここは……湖、なのか?」
すり鉢状に深く削り取られた巨大な空間。
外周の足場はまだかろうじて平らだが、そこから先はなだらかに、だが確実に中央へ向かって落ち込んでいる。
その中央には、黒々とした水を湛えた広大な湖が広がっていた。
すり鉢の縁に沿って、俺たちが立つわずかな足場となる石畳の通路が円形に続いているが、一歩でも足を踏み外せば、そのまま傾斜を滑り落ち、中央の深い湖へと引きずり込まれてしまうだろう。
見上げれば、天井は霞んで見えないほど高く、すり鉢の壁面には発光する青い苔や珊瑚がびっしりと群生しており、まるで満天の星空のように空間全体を薄明るく照らし出している。
神秘的でありながら、どこか底知れぬ恐怖を煽る光景だった。
「御屋形様、ご注意を」
鬼一が『喰血』の柄に手をかけながら、俺の半歩前へ出る。
「水底に、巨大な魔力の塊が潜んでおります」
『いかにも』
アビスの念話も低く響いた。
『単一の個体。されど、これまでの魔物とは明らかに格が違いますな』
「マスター、来るよっ!」
レイが空中にふわりと舞い上がり、警告を発した時。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
地鳴りのような重低音が、湖の底から響き始めた。
静かだった水面が不自然に波立ち、やがて巨大なうねりを生み出す。
最初はゆっくりだった回転も、瞬く間に速度を増していく。
すり鉢状の地形そのものが水流を導き、外周から中央へ、中央から外周へ、あり得ない軌道で水が暴れ出す。
まるでこの部屋自体が、巨大な洗濯槽になったみたいだった。
「……渦!?」
ザッバァァァァァァァァァンッ!!
湖の中央から、巨大な水柱が吹き上がった。
天井近くまで届くほどの白い飛沫。
その中から姿を現したものを見て、俺は息を呑む。
「……うそ、だろ」
姿を現したのは、三つ首の海蛇だった。
いや、海蛇と呼ぶには、あまりにも禍々《まがまが》しく、あまりにも巨大だった。
全長は優に20メートルを超えているだろう。
青黒い鱗に覆われた胴体。
その表面には、渦潮そのものが薄衣のようにまとわりついている。
そして、その海蛇には三つの首があった。
それぞれの首には、王冠のように鋭いヒレが逆立ち、ルビーのように赤く発光する凶悪な瞳が俺たちをねめ回している。
喉が鳴る。
今まで戦ってきた敵の中でも、明らかに一段上だ。
ただそこに存在しているだけで、肺が重くなり、膝が笑いそうになる。
ユナの殺気とも違う。
もっと根源的で、もっと自然災害のような圧だった。
しかも、この大量の水に満ちた圧倒的に不利な地形。
海蛇の三つの顎が大きく開き、威嚇するように嘶いた。
「シャァァァァァァァァァァッ!!」
鼓膜が破れそうなほどの咆哮。
同時に、すさまじいプレッシャーが物理的な風圧となって俺の身体を叩きつけた。
「ぐっ……!」
息が詰まる。立っているのすらやっとだ。
これが、深海の塔の第2階層を統べるボスの威圧感か。
凡人の俺なら、睨まれただけで気絶してしまいそうなほどの恐怖だった。
だが。
「……なぁんだ、ただのデカいヘビじゃん。もっと面白いやつかと思ったのに、ちょっと拍子抜けかもー」
空中で腕を組んだレイが、心底つまらなそうにため息をついた。
「フン。図体ばかりでかくて、知性の欠片も感じられぬな」
鬼一が、鼻で笑いながら『喰血』の柄をトントンと指で叩く。
『肩慣らしとしては、上々ですな』
アビスに至っては、槍の穂先を軽く持ち上げただけだった。
「お、お前ら……!」
俺は唖然として三体を見上げた。
ボスを前にして、こいつらは微塵も緊張していないのか。
むしろ「あーあ、期待はずれ」みたいな空気を隠そうともしていない。
「ゆ、油断なよお前ら! 相手はボスだぞ!」
「あははっ、マスターってばビビりすぎだよ♪」
「左様。御屋形様は、我らの戦いを特等席でご覧になってくだされば」
俺の忠告などどこ吹く風で、魔物たちは完全に余裕の構えだ。
その態度が、目の前の巨大海蛇の逆鱗に触れたらしい。
「シャギャァァァァァァァァァッ!!」
海蛇が三つの首を振り乱し、激怒の咆哮を上げる。
同時に、その体の周囲を覆っていた渦潮が、爆発的に膨張した。
「……っ!」
それに呼応するように、湖の中央で渦巻いていた渦潮が、一気に暴走を始める。
すり鉢状になっている湖全体が、ひとつの“兵器”へ変貌したのだ。
中央の渦が強力な遠心力と引力を生み出し、すり鉢の縁にある足場の水までをも強引に引きずり込み始めたのだ。
足元の水が一気に膝を越え、腿を越え、腰まで跳ね上がる。
次の瞬間には、横殴りの濁流が俺の身体をすくい上げた。
立っているとか、踏ん張るとか、そういう段階じゃない。
水位が急激に上がり、俺たちが立っている石畳の通路に、鉄砲水のような激流が押し寄せてきた。
「うわぁぁぁぁっ!?」
俺は荒れ狂う水流に足元をすくわれ、身体が軽々と宙に浮いた。
抗う間もなく、濁流に飲み込まれ、すり鉢の中心――あの巨大な三つ首が待ち構える渦潮の底へと引きずり落とされそうになる。
「ブクッ、ガボッ……た、助けっ……!」
水中で上下の感覚が失われ、肺に冷たい水が流れ込んでくる。
死ぬ。
このままじゃ溺れ死ぬか、あの海蛇の餌食になる!
俺はパニックになりながら、必死に周囲へ手を伸ばした。
「アビス! 鬼一! レイッ!」
半ば悲鳴のように叫ぶ。
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