第107話 謎の侵入者
「侵入者だと!?」
ミロが弾かれたように立ち上がり、ダガーを抜く。
ガルムも立ち上がり、ネムを背に庇う。
「カーミラ、第一階層の状況は!」
「待っておれ」
カーミラが目を閉じる。
第一階層に展開する数百の蟻たち。
その全ての視界と感覚が、女王である彼女には共有されているはずだ。
森に張り巡らされた、生きた監視網。
たとえ気配を消した斥候だろうと、地面を伝う振動と匂いまでは消せないはずだった。
「……おかしいのう」
カーミラの眉が、ぴくりと寄った。
「どうした?」
「おらぬのじゃ。森にも、洞窟の入り口にも、第二階層の水辺にも。蟻どもの目にも鼻にも、何も引っかかっておらぬ」
「誤報か?」
「いや……それがな、主よ」
カーミラは目を開け、珍しく困惑の色を浮かべた。
「『おらぬ』のに、『おる』のじゃ。妙な言い方になるがの。森の空気が、ほんのわずかに……誰かが通った後のように揺れておる。じゃが、敵意は感じぬ。殺気も、害意も、何もない。まるで――」
「まるで?」
「散歩でもしておるかのようじゃ」
散歩。
討伐軍を返り討ちにしたばかりの、むせ返るほどの血の匂いがするダンジョンを、散歩……。
「……ろくな奴じゃないな、それ」
『主よ』
アビスの念話が響く。
『敵意がないとはいえ、正体不明の存在をダンジョンコアに近づけるわけには参りませぬ。私と鬼一殿が通路を固めます』
「ああ、頼む」
鬼一が音もなく妖刀『喰血』の柄に手をかけ、通路の入り口へ向かう。
アビスが大盾を構えて、その隣に立つ。
B+ランクの鬼人将軍と、深淵の騎士による鉄壁の布陣。
生半可な侵入者では太刀打ちできないだろう。
俺たちは固唾を呑んで、通路の暗がりを見つめた。
五分過ぎ。
やがて、十分が経過した。
何も、来ない。
「……来ない、ね」
レイが拍子抜けしたように呟いた、その時だった。
「ふわぁぁぁ……これはこれはこれは!」
声が、した。
通路からではない。
俺たちの、真後ろ――ダンジョンコアのすぐ脇からだ。
「なっ……!?」
全員が、文字通り飛び上がった。
鬼一が神速で振り返り、アビスが俺の前に滑り込み、レイが翼を広げ、カーミラの周囲に蟻酸の霧が立ち込める。
バフォメットに至っては「ひゃわぁぁっ!?」と悲鳴を上げて、近くの岩陰にヘッドスライディングで飛び込んだ。
そこに、誰かいた。
ダンジョンコアの放つ淡い光の中に、一人の女性が立っていた。
歳は二十代半ばだろうか。
くすんだ緑色のローブを羽織り、大きな丸眼鏡をかけている。
背中には、本やら巻物やらが今にも溢れそうな、パンパンに膨らんだ革のリュック。
長い髪は適当にひとつ結びにされ、ところどころ寝癖のようにはねていた。
そして彼女は、俺たちの存在など眼中にないかのように、頬を紅潮させてダンジョンコアを見上げている。
「ここが、討伐軍まで撃退したダンジョンなんですねー! なんて素晴らしい! 見てくださいこのコアの輝度! 通常の新興ダンジョンの三倍……いえ五倍はあります! 隔壁の魔力圧もすごい……、外から計測した時は計器の故障かと思いましたよ! ああっ、コアの脈動周期が短いんですねっ! 短いということは構築命令の処理速度が……はわわわ、メモを、メモを取らないと……!」
女性は鞄から羽根ペンと手帳を引っ張り出し、ものすごい速度で何かを書き殴り始めた。
「…………」
俺たちは、誰一人として動けなかった。
敵、なのか?
いや、それ以前に。
「……どっから入った!?」
俺の叫びに、女性はようやくこちらを向いた。
丸眼鏡の奥の瞳が、俺を捉える。
その瞳が、コアを見ていた時の倍くらいに、カッと見開かれた。
「人間……? ダンジョンの最奥に、魔物に囲まれて立っている、人間……? 魔物たちの陣形は明らかにあなたを守っている……その手に持っている魔導具……ま、ま、ま、まさか」
女性の手から、羽根ペンがぽとりと落ちた。
「ダンジョンマスター……実在、したんですね……」
彼女はふらりと一歩、俺に近づいた。
鬼一が喰血を構え直すが、女性はまるで意に介さない。
いや、見えてすらいないのかもしれない。
その瞳には、もう俺しか映っていないようだった。
「本物の……本物のダンジョンマスター様ですか!?」
「へっ!? あー、まぁ、そうですけど……」
「サインください!」
「は?」
「サ・イ・ンです! 是非ここに! あ、インクがなければ血判でもいいですよ! むしろダンジョンマスター様の血液サンプルが採れるなら血判の方が……」
「いやいやいや!」
ずいっと突き出された手帳を、俺は反射的にのけぞって避けた。
いったい誰なんだこの人は!?
「ええと……あんた、何者だ?」
俺がどうにか絞り出した問いに、女性は「はっ」と我に返り、ローブの胸元から銀色のプレートを取り出した。
「大変失礼しました、自己紹介がまだでしたね。わたし、こういう者です」
「ああ、どうも……」
彼女は、まるで名刺を差し出すかのように、丁寧にそのプレートをこちらに向ける。
差し出されたプレートには、流麗な文字でこう刻まれていた。
『王都冒険者ギルド本部 迷宮調査室 室長
リシェル・ノートン』
「ギルド本部の……室長……!?」
ギルド本部。
つい数時間前まで、俺たちを殺すために討伐軍を送り込んできた組織の幹部。
その肩書きの意味が脳に刻み込まれた瞬間、その場の空気が一気に張り詰めた。
鬼一の闘気が一気に膨れ上がり、カーミラの瞳が剣呑な赤に染まる。
だが、当の本人は、殺気の濁流の中でニコニコと笑っていた。
「あ、そんなに警戒なさらないでください。今日のわたしは完全にプライベート……ではないですけど、九割プライベートですので! 残りの一割は、れっきとした調査任務ですが、まあそれは置いておくとして!」
「それが一番大事なんじゃ……」
「そんなことより! ダンジョンマスター様!」
リシェルは俺の突っ込みを華麗にスルーし、眼鏡をくいっと押し上げた。
レンズの奥の瞳が、爛々と輝いている。
「このダンジョンのこと、たくさん聞かせていただけませんか? 階層構築の理論、魔物の配置の思惑、あの見事な蟻の監視網の運用方法……ああ、知りたいことが多すぎて、頭が爆発しそうです!」
「いや、こっちが聞きたいことだらけだよ!」
俺は頭を抱えた。
謎の侵入者は、敵ではなかった。
だが、味方とも言い難い。
ただ一つ確かなのは――とんでもなく面倒くさい奴が来た、ということだった。




