レーネット
帝国歴二二一年四月。帝都で一人の男が死んだ。
ナルファスト公国の君主、ヴァル・ナジステオ・オフギース。「貴族の子」を意味するヴァル号を冠する世襲貴族で、「ナジステオ」が家名、「オフギース」が個人名である。
四三歳という年齢は、若いとは言えないが死を身近に感じるほどではない。ましてや、オフギースは「殺した程度では死なない」といわれるほどに壮健であった。
彼の長子ロンセーク伯レーネットに凶事を知らせに来た家臣はひどく取り乱しており、全く要領を得ない。
「落ち着け。何があったというのだ」
家臣は言葉を詰まらせながら、絶望的な事実を口から絞り出した。
「公爵が……お亡くなりになっております」
「何だと!?」
レーネットは父の私室に駆け付けた。
オフギースの遺体は、まだ床に横たわっていた。
世界が傾ぐような錯覚を覚えて、レーネットはよろめいた。だが、浮き足立っている家臣たちの視線を感じて、自らを叱咤した。
「父ならどうするか」。父の背中を追い続けたレーネットにとって、この問いかけが常によりどころになっていた。
父ならどうするか。父ならば……。
レーネットは冷静さを取り戻して指揮を始めた。父の遺体を寝台に安置し、死因を調べること。事態を掌握するまで公邸外への口外を禁ずること。公邸内に他に変事がないか確認すること。
仕事を与えることで家臣たちを落ち着かせると、レーネットは寝台に載せられた父のそばにひざまずいた。
父譲りの、くすんだ銀髪をかき上げて深呼吸した。続けて父の乱れた髪を整え、父の手を握った。まだ冷たいというほどではない。死後硬直も始まっていない。この世を去ってから、さほどの時間はたっていない。
記憶の中にある父の手は、もっと大きかった気がする。だが、今はレーネットのそれとほとんど変わらない。
「手の大きさだけは父に追い付いたという訳か……」
手だけは。そう、手だけだ。
手の大きさしか追い付けなかった。
レーネットは奥歯をかみしめた。
父の顔に苦悶した様子はなかった。唇の色が悪いことを除けば、眠っているようにしか見えない。
「お苦しくはありませんでしたか?」
まだ近くに父がいるような気がして、問いかけた。
返事は、なかった。
もう二度と声を聞くことは叶わないのだと、改めて思い知らされた。
レーネットは、深呼吸すると意識を現実に引き戻した。今やるべきことは嘆くことではない。父ならそう言って笑うだろう。
「ロンセーク伯、お探ししておりました」
レーネットの異母弟スハロートの後見役であるヴァル・フォルゴッソ・アッゲザールが、遠慮がちに姿を現した。
彼は四七歳だが、非常に痩せているため実年齢以上に老けて見える。頭髪はほとんどなく、後頭部の一部にわずかに残っているのみだった。
彼は、平静を装ってはいるが顔色が悪かった。手が震えており、動揺は隠せていない。
「フォルゴッソ卿、そんなに慌ててどうしたのか」
「デズロント卿のお姿が見えません。しばらく前に屋敷を飛び出していったのを見たものがおります」
デズロントはレーネットの後見役である。
「デズロント卿が?」
「はい。『死んだ』『殺した』などと叫びながら半狂乱で走っていたとか。時間的に、ナルファスト公がお亡くなりになった頃かと思われます」
フォルゴッソは明言を避けたが、言わんとしていることは明らかだ。
「つまりデズロント卿が父、いやナルファスト公を害して逃亡したというのか」
「まだ決め付けるのは早うございます。しかし何かご存じの可能性があります」
彼の動揺は、収まりつつあるようだ。血色は悪いままだが震えは止まっていた。
言質を取らせない狡猾さにレーネットは内心で舌打ちしたが、彼の発言には一理あることを認めざるを得ない。
「デズロント卿の捜索を優先する。フォルゴッソ卿、捜索隊の手配をお願いしたい」
「承りました。ではデズロント卿のご家臣も帯同する許可を賜りたく。私の家臣だけではデズロント卿も安心できますまい」
レーネットを推すデズロントとスハロートを推すフォルゴッソは、常に対立してきた。この状況下でフォルゴッソの手勢が追ってきたら、デズロントがおとなしく従うとは思えない。それだけではない。デズロントを死なせるようなことがあれば、これを好機に謀殺したと思われるのは必定だった。デズロントの手勢も同行させることで、そうした懸念に対する保険をかけたいというわけだ。
「ではデズロント卿の手勢をフォルゴッソ卿に預ける。早急にデズロント卿を連れ戻してほしい」
「では早速」
何ごとにおいても老練と言うべきか、狡猾と言うべきか……。スハロートの後見役という地位を利用して、ナルファスト公国譜代の家臣を差し置いて短期間で勢力を拡大しただけのことはある。
だが、デズロントの捕縛には失敗した。
帝国の街道沿いには、緊急時の伝令用として各所に替え馬が用意されている。デズロントは、替え馬を強引に徴発して逃げたらしい。フォルゴッソとデズロントの家臣は追跡を断念せざるを得なかった。
レーネットは父と共に皇帝に拝謁するために帝都に来たのだが、もはや拝謁どころではない。
翌朝、帝国に父の死を報告して拝謁の延期を願い出ると、レーネットは帰国の準備に取りかかった。
父の死によって、「ロンセーク伯」の称号の重みが増した気がした。ロンセーク伯はナルファスト公の長子に与えられる儀礼称号である。儀礼称号は親が保持する爵位の一つを子が通称として名乗るもので、正式に襲爵しているわけではない。
太陽の光は確かに春の訪れを感じさせるが、風の中にはまだ冬の残党が残っていた。一陣の寒風がレーネットの頬をたたく。帝都よりも春の訪れが遅いナルファスト公国の方角を眺めながら、レーネットは嫌な予感に慄然とした。
そしてこれが、帝国を揺るがすことになる一連の戦乱の発端になったのである。
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