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レーネット

 帝国歴221年4月。帝都で一人の男が死んだ。彼は名をヴァル・ナジステオ・オフギースという。ヴァルは「貴族の子」を意味する貴族称号で、「ナジステオ」が家名、「オフギース」が個人名を意味する。

 彼の死は本人と親族にとって痛ましい出来事であり、家臣たちにとっての一大事だった。彼はナルファスト公という高い地位にあったことから、その死は政治的な影響も大きかった。

 オフギースは私室で倒れている状態で発見された。彼は43歳という老齢であり、死は意識せざるを得ない存在だった。だが、その壮健ぶりは「殺した程度では死にそうにない」と周囲に思わせるほどだったから、ナルファスト公邸は上を下への大混乱に陥った。


 彼は日没前に19歳の長子ロンセーク伯レーネットと共に夕食を取り、レーネットとぶどう酒を飲みながらしばし会話を交わしてから私室に下がった。オフギースが発見されたのはそれからしばらく後のことだった。同じく私室に下がっていたレーネットへの報告が遅れに遅れたことからも、家臣たちの混乱ぶりがうかがい知れる。

 レーネットが冠する「ロンセーク伯」は儀礼称号である。儀礼称号とは、親が保持する爵位の一つを子が通称として名乗るもので、正式に襲爵しているわけではない。ロンセーク伯はナルファスト公位の継承者に与えられるのが通例で、レーネットもこれによって公位継承者と目されている。これを公式なものとするために皇帝に拝謁する、というのがオフギースとレーネットが帝都を訪問した目的であった。だがこの目的は果たせなかった。皇帝への拝謁を明朝に控えて準備を始めた矢先の奇禍であり、こうなっては拝謁どころではない。

 父の死という重大な報告が遅れたことに苛立ったものの、レーネットはすぐに冷静さを取り戻して指揮を始めた。ナルファスト公の遺体を寝台に安置し、死因を調べること。事態を掌握するまで、公邸外への口外を禁ずること。公邸内に他に変事がないか否かを確認すること。仕事を与えることで家臣たちを落ち着かせると、レーネットはやっと父のそばに行くことができた。

 父譲りの、くすんだ銀髪をかき上げて深呼吸する。

 寝台の脇にひざまずき、父の乱れた髪を整え、父の手を握った。まだ冷たいというほどではない。死後硬直も始まっていない。この世を去ってからさほどの時間はたっていない。息子と多くの家臣がいる公邸で、誰にも看取られずに一人で逝かせてしまったと思うと無念だった。

 オフギースもレーネットも日焼けした引き締まった体躯を持ち、髪の色も同じなので似ていると言われることが多い。レーネットも、見た目だけなら父に似ていると自負しているが、君主としての器量は足元にも及ばないことも自覚している。

 駆け付けてきた公邸お抱え医師が、レーネットの後ろで居心地が悪そうに突っ立っていた。いつまでも父の手を握り締めていたのでは、死因の調査に差し障る。彼に後を委ねると、レーネットは公邸内を見回ることにした。今やるべきことは嘆くことではない。父ならそう言って笑うだろう。

 オフギースの寝室を出て広間に向かうと、ヴァル・フォルゴッソ・アッゲザールの姿が見えた。彼はレーネットの異母弟スハロートの後見役である。フォルゴッソの妹がスハロートの乳母だった縁でこの役を与えられたのだ。

 彼は、レーネットの後見役であるヴァル・デズロント・フルブレドと共にオフギース親子の帝都訪問に同行していた。公位継承者としてレーネットを推す「レーネット派」とスハロートを推す「スハロート派」の双方に配慮した人選だった。

 「ロンセークレーネット、お探ししておりました」

 レーネットに気付いたフォルゴッソが慌てて近づいてきた。この男は40後半、確か47歳だったか。非常に痩せているため実年齢以上に老けて見える。頭髪はほとんどなく、後頭部の一部にわずかに残っているのみだった。

 「フォルゴッソ卿、そんなに慌ててどうしたのか。もはや急ぐようなことは何もあるまい」

 「デズロント卿のお姿が見えません。しばらく前に屋敷を飛び出していったのを見たものがおります」

 「デズロント卿が?」

 「はい。『死んだ』とか『殺した』などと叫びながら半狂乱で走っていたとか。時間的に、ナルファスト公がお亡くなりになった頃かと思われます」

 フォルゴッソは明言を避けたが、言わんとしていることは明らかだ。

 「つまりデズロント卿が父、いやナルファスト公を害して逃亡したというのか」

 「まだ決め付けるのは早うございます。しかし何かご存じの可能もあります」

 言質を取らせないフォルゴッソの狡猾さに内心で舌打ちしつつも、発言には一理あることを認めざるを得ない。まずはデズロントを捕らえて事情を聴くべきだ。

 「デズロント卿の捜索を優先する。フォルゴッソ卿、捜索隊の手配をお願いしたい」

 「承りました。デズロント卿のご家臣も帯同する許可を賜りたく。私の家臣だけではデズロント卿も安心できますまい」

 デズロントとフォルゴッソが事あるごとに対立していることは周知の事実だ。この状況下でフォルゴッソの手勢が追ってきたら、デズロントがおとなしく従うとは思えない。それだけではない。デズロントを死なせるようなことがあれば、故意でなくてもこれを好機に謀殺したと思われても仕方がない。デズロントの手勢も同行させることで、そうした懸念に対する保険をかけたいというわけだ。反対する理由は何一つない。

 「ではデズロント卿の手勢をフォルゴッソ卿に預ける。早急にデズロント卿を連れ戻してほしい」

 「では早速」

 フォルゴッソはデズロントを追うための手はずを整えるために、レーネットの前から下がった。何ごとにおいても老練と言うべきか、狡猾と言うべきか……。スハロートの後見役という地位を利用して、ナルファスト公国譜代の家臣を差し置いて短期間で勢力を拡大しただけのことはある。

 だが、デズロントの捕縛には失敗した。

 帝国の街道沿いには、緊急時の伝令用として各所に替え馬が用意されている。デズロントはこれを利用して、馬を替えながら逃げたらしい。単騎だからできる芸当だった。20騎で追跡したフォルゴッソとデズロントの家臣は、馬の疲労とともに追跡を断念せざるを得なかった。


 翌朝、帝国に父の死を報告して謁見の延期を願い出ると、レーネットは帰国の準備に取りかかった。ナルファスト公国に残したスハロートが事態をうまく収めてくれるとは思うが、デズロントの出方しだいでは武力が必要になるかもしれない。急ぎたいのはやまやまであったが、帝都に連れてきていた兵は全て連れ帰ることにした。最悪の場合、この手勢だけがレーネットを守る兵力になってしまう可能性もある。

 なぜこんなことになってしまったのか。自分に何か落ち度があっただろうか。太陽の光は確かに春の訪れを感じさせたが、風の中にはまだ冬の残党が残っていた。一陣の寒風がレーネットの頬をたたく。帝都よりも春の訪れが遅いナルファスト公国の方向を眺めながら、レーネットは嫌な予感に慄然とした。

 そして、これが帝国を揺るがすことになる一連の戦乱の発端になったのである。

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