第四十八話
もはや私に構う者はいなかった。
ガシャンとフェンスにもたれる。もしあそこで非常ベルが鳴らなかったら危なかった。
いや、火事なんだから私もこうしちゃいられない。速く逃げないと。フェンスから上半身を起こそうとした時、どこかから声が聞こえた気がした。
「え、ハク?」
そう思ったが、違う。ハクじゃなかった。
おかしいな。確かに呼ぶ声が聞こえた気がしたんだけど。
非常ベルや騒ぎで聞き間違えたのかも知れない。
「どこ見てるの」
また聞こえた。今度ははっきりと自分に向けられていると分かる。
右左と見回すが、いまだ階段室に殺到して避難の進まない剣徒たちが見えるだけだ。やはり私のそばには誰もいない。
「こっちこっち」
え?
声はなんと後ろ側から聞こえた。
振り返る。当然背後は金網フェンス。向こう側には少しの足場以外何も無い。
「下だよ、下」
言われて視線を下げると足場の縁に金属の鉤爪みたいな物が引っかかっているのが見えた。その向こうからにゅっと顔が突き出した。
「ひぇっ?!」
心底驚いて思わず一歩飛び退いた。現れたのは、
「遥乃っ」
中等部三年の渡会遥乃だった。
「あ、あんたそんなとこで何してんのっ」
「何してるって、随分なご挨拶だよ。危ないところを助けたのに」
屋上の縁の外側から顔だけ出して、ぷっくり頬を膨らます様はもはや恐怖でしかない。
「助けたって、もしかしてこの非常ベルあんたが」
「そっ。さっきの半鐘と『火事だー』って声もね。そもそも姉の一世一代の剣闘に駆け付けない妹がいますかって」
にっと快活な笑みを浮かべる。
私は素早く辺りを見回して、背中で遥乃の頭を隠した。大丈夫、こっちに注意を払っている人間は幸い誰もいない。
とんでもない子だ。私を助けるために非常ベルを鳴らすなんて。
「もし剣武会にばれたら、確実にあんたの頭と身体が泣き別れるよ」
「その時は今度はお姉ちゃんが私を助けてくれるんでしょ。剣闘で」
これで遥乃に助けられるのは二回目だ。だけど、前回の茶室の時とは規模が違い過ぎる。
「遥乃、なんでそんなに私を……。噂は中等部にも回ってるんでしょ」
剣武会十剣鬼に対する不意討ち行為。あれだけ浮かれてた同級生だって一度は私を見限ったのだ。なのに遥乃は死罪上等とでも言いたげに、とんでもない方法で私を助けに来てくれた。
「まぁね。でも、お姉ちゃんが不意討ちクソ野郎でも私には関係ないよ」
「そこはなにか事情があったんでしょ、とか言いなさいよ」
肩越しに振り返って言う。
「だから事情とか関係ないんだって。前にも言ったよ。私とお姉ちゃんは剣闘による剣裁で姉妹になった。姉妹の契りも交わした。これ以上重要なことがある? ないよね」
眩しいくらいにまっすぐな瞳にまっすぐな答え。
「もし私じゃなくて木南ちゃんでも助けに来た?」
何だか照れ臭くって私は意地悪なことを聞いてみた。
「元姉上様の名は拙身の前で出さないで頂きたい!」
「口調、戻ってる戻ってる。名前に反応してるって」
「はっ?! ごほんっ。とにかくこんなとこでダラダラしてちゃまずいよ。誤報だってのがバレたら、剣闘再開されるんじゃない?」
「でも、階段が……」
人で溢れ返っている。
「脱出経路も確保せずに助けに来るわけないって」
ぴょんっと遥乃が縁の部分に飛び出すと、腰の刀に手をかけた。
「ちょっと、なにを……」
「退がってて」
止める間もなかった。遥乃は屋上フェンスの金網を何の躊躇もなく数カ所ぶった斬った。
うわぁ。
刀を収めると、グイグイと手と足を使って金網を強引に広げる。
「さ、どうぞ」
どうぞじゃないよ。茶室の時然り、この子姉上様のためなら器物損壊程度じゃ少しの罪の意識も生じないらしい。剣の腕は今ひとつなのに、なんでこう大胆なの。そういやいきなり恋文送りつけて来るようなキャラだったっけ。
「急いで。ちょっとずつだけど人減って来たよ」
階段の方に目をやると、十剣鬼の誘導が功を奏したのか、剣徒たちは落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
まごまごしているヒマはなかった。せっかく剣闘が水入りになったのだ。一旦仕切り直した方がいいのは間違いない。
私も刀を鞘に収めて遥乃の広げた金網フェンスを潜った。外側の縁へと立つ。
びょうっと強い風が吹き、袴スカートの裾を盛大に煽った。
「はい、この縄掴んで」
しゃがんだ遥乃が、鉤爪の先に結びつけられていた縄を渡そうとしてくる。
「ちょ、あんた、こんなのでここまで登って来たの?! 命綱は?!」
きょとんと私の顔を見上げる。
「お姉ちゃんやったことないの?」
「あるか!」
「もー、しょうがないなぁ。じゃあ私が負ぶったげるよ」
「え、負ぶ……? そもそもあんたなんなの。茶室の時も屋根裏に潜んで、煙幕みたいなの使ってたけど」
「あ、倶楽部は忍部だから」
意味不明な部活を当然のノリで宣言するのやめて。
「ほらほら、しっかり掴まらないと落ちちゃうよ」
グイグイ私の身体を引っ張ってくる。こんな狭い足場で、押し問答していたらそっちの方が危なくって仕方ない。諦めて遥乃の身体にしがみつく。
「勝手だけど遥乃はブラスバンドとかやってるイメージだったよ」
「あはは、それはないって。南蛮由来の倶楽部は士峰館では扱い悪いんだから。でんでん虫のオバケみたいなやつをふーふーするなんて、物好きしかやらないよ」
ここへ来て新たな設定追加すんのもやめて。
しかもユーフォニアムやチューバをでんでん虫のオバケってあんたね……。
「じゃあ、行っくよー」
「え、ちょ、待って。心の準備が!」
「お姉ちゃん動かないでよ。下手したら二人とも死んじゃうから☆」
死に対して恐怖を感じないのは、何も斬り合いだけではないらしい。『剣徒たる者、いついかなる死も恐れず』なのか。
かくいう私も心のどこかでまぁいっかと思っている節がある。でないと、命綱もないこんな方法でもって屋上から降りようなんてそもそも思わない。
《小次郎》永久子が迫って来た時は、確かに恐怖を感じたはずなのに、喉元過ぎればこんなもんである。現金なもんだ。
あぁ、やっぱ私もすっかり士峰館の剣徒ってことなんだろーか。




