第四十二話
私はよろよろと立ち上がった。
大して汚れてもいない袴スカートを意味もなくパタパタと払うと、静かな廊下を虚しく歩き出す。
足が鉛のように重い。
階段の手摺りを掴み、ふらつく身体を支えるようにした。階段を見上げるが、三階の玻璃組教室に向かう気にはなれなかった。いや、その気力がなかった。あれだけ上等切って出ていっておいて、スズちゃんや皆の前にどんな顔をして戻れるだろう。
言えるもんか。相手にすらされなかったなんて。
「はは」
乾いた笑いが出た。
私はそのまま校舎の外へと向かった。見る人がいたらよろよろと歩く私の姿は、まるで夢遊病者のように見えたかも知れない。とにかく人のいない所に行きたかった。
もうすぐ授業が始まるのもあって、今見える所にはどこにも人気はない。だが、それでもすぐに目に付くような場所は避けたかった。
朝の光が憎らしいくらい眩しい。可愛くさえずる小鳥たちにさえイライラが募る。春の陽気に唾を吐きかけたくってたまらない。
校舎と校舎の間を通り抜け、剣徒会館の前へと出る。更にその裏側へと私は回った。
昨日桃ちゃんと調査した竹林が会館裏には広がっている。ここならどこかの学年が移動教室で行き来しても目に付くことはなさそうだ。
「はぁ」
大きく息を吐き出して建物の壁にもたれると、振り絞っていたなけなしの力が、一気に身体から抜けていった。精根尽き果てるってこういうことを言うんだろうか。
ズルズルと背中が滑り、そのままコンクリートにお尻が着いた。邪魔な刀を腰から引き抜いて目の前に放るとカシャンと音を立てて転がった。いつまでもヘソを曲げているハクももう知らない。雑に扱われてムカつくんなら文句のひとつも言えばいいんだ。
両足を抱き寄せるとそこへ顔を埋めた。
泣くまい。
そう思った。
でも、無理だった。じわりと滲んだ涙は止めようもなく溢れて落ちた。
いったいこれは何の涙か、自分に問いかける。
ある日突然わけの分からない世界に放り込まれた涙か。
仲良くなった友人たちに軽蔑された涙か。
今まで一緒にやって来た相棒に見限られた涙か。
汚名返上を懸けた剣闘があっさりと却下された涙か。
とにかく後から後から流れ出して止まらない。
「うわぁん」
大きな声が漏れた。もう構うもんか。ここには誰もいないんだから。
私はカトリアーデ高校で巷によくあるJKライフを楽しみたかっただけなのだ。ファッションでもメイクでも恋愛でも何でもいい。なのにそのどれかひとつでもまともに楽しむような空気がここにはどこを探したって存在しない。
なんで私が刀を振り回して血で血を洗うような日常を送らなけりゃいけないの。いったい私がどんな悪いことをしたっていうの。
「誰か教えてよぉ」
その私の願いが届いたってわけでもないだろうが、すぐそばで人の気配がした。
「美夜日ちゃん」
声がした方向へ思わず顔を上げる。そこにいたのは、
「……らみるちゃん」
二年群青組、一ノ瀬らみるその人だった。
私の顔を見てクスッと笑う。
「長いうんこだったねぇ。私昨日ずっと待ってたんだよ。便秘?」
そう言えば昨日ここで別れて以来だった。
「……んなわけないじゃん。馬鹿言わないでよ」
「知ってる、冗談だよ。それにしてもひどい顔」
らみるちゃんの言葉に思わず顔を伏せて、袂でゴシゴシと目元を擦る。
「無断欠席は十七条の剣法のなんとか違反だからさっさと教室に戻れ、そう言いに来たの」
「そんなんじゃないよ。あんまり擦ったら目元腫れちゃうよ。ほら、私の手拭い使いなよ」
自分の袂からハンカチを取り出してらみるちゃんが私に差し出した。チラリと伏せた目を上げてそれを見る。
「手拭い、ね」
またあの馬鹿らしいここでのルールか。
はっきり言ってうんざりだったが、らみるちゃんはハンカチをいつまでも引っ込めようとしなかった。仕方なく受け取る。
「あ、でも鼻噛むのは禁止ね」
「うるさいな。だから何しに来たの。惨めな私を笑いに来たの」
それには答えず、らみるちゃんは袴スカートの裾を抱えて私の左隣に腰かけた。
風が吹き、さわさわと音を立てて竹林の笹の葉が揺れた。しばし湿った目元を整えるのに専念する。その間、らみるちゃんは黙って私を待っていてくれた。やがて私がある程度落ち着いたのを見計らって口を開く。
「美夜日ちゃんが血相変えて階段を駆け下りてったでしょ。群青組の教室からたまたま見えたの。これはなんかあるなって、追いかけたらびっくりしたよ。姉上様に真っ正面から剣闘を申し込むんだもん」
「後ろからはダメって言われたからね、みーんなに。剣闘の申し込み方法が他にあるんなら教えてよ」
「果たし状、校内放送、誰かに言伝を頼む。色々あるけどどれが聞きたいの」
あるんだ。
「……やっぱいい。落ち込む。直接乗り込んだ私がばかみたいじゃん」
「そっちが教えてって言ったんでしょ」
「そうだけど。だから、こんな話をしに私を追って来たわけじゃないでしょ。何回言わせんの」
しばらく考えるような間があった。
「昨日そこで何があったか聞かせて」
らみるちゃんは目の前で風にそよぐ竹林を示した。私は再び顔を膝の間に埋める。
「私の行動から大方想像出来てんでしょ。今さら説明の必要ある?」
「あるよ。美夜日ちゃんの口からちゃんと聞きたい」
「聞いたって信じないよ。だからこんなことになってんのに」
「それでもだよ」
渋る私。らみるちゃんも退かない。
特にらみるちゃんには言えるわけなかった。だってあの女を姉上様と呼んで慕っているんだから。
「はぁ」
私がいつまで経っても口を開かないので、痺れを切らしたのか、らみるちゃんがため息を吐いた。
「じゃあ私の口から言うよ。美夜日ちゃんは永久子姉上様が辻斬りの犯人だと思ったんでしょ。それを示すような何かを昨日そこの竹林の中で見つけたんじゃない?」
私は自然と顔を上げて隣のらみるちゃんを見た。
「だけどそれは誰かにはっきりと説明したり、証拠として提示出来るほどの決定的な物じゃなかった。勘や推測に近いものもあったんじゃないかな。だから一緒にいたはずの桃さんにも、途中で問い詰めた私にも何も言えず自分で確かめに行くしかなかった。ううん、不意討ちするくらいだから美夜日ちゃんからしたら確かめるまでもなかったってことだよね。姉上様が辻斬りの犯人だと確信していないと、いくらなんでも問答無用で後ろから斬りかかったりしないと思うんだ。違う?」
言わせてしまった。私が言わなかったから。
姉上様と慕う《小次郎》永久子を犯人とする内容を、らみるちゃんの口から。
私はまた顔を伏せた。止まったはずの涙がまた滲んだ。私って、こんなどうしようもない奴だったっけ。
「もー、何でまた泣くの。調査を頼んだのは私たちだよ。その頼んだ側が犯人だと示す証拠が見つかったんだとしたら、そりゃあ美夜日ちゃんからしたら『ふざけんな、舐めてんのか!』ってなるのは当然だと思う」
らみるちゃんが手を伸ばし、放り出してあった私の刀を取るのが膝を抱えた腕の隙間から見えた。付いていた汚れをさっと払う。
「でも、どうして姉上様を辻斬りの犯人だと思ったの? 勘でも推測でもいい。きっかけが竹林であったなら教えて欲しい」
らみるちゃんは私の刀――ハクを二人の間に静かに置いた。
「それは、ハクが……」
言いかけて慌ててやめる。
「ハク?」
私の刀に宿る自称大剣豪のハクロウ。そのハクが私の身体を操り、覆面女子と闘った結果そう判断したから。なんて、言って信じて貰えるわけがない。
「ねえ美夜日ちゃん。顔上げてこっち見て」
「……やだ」
「いいから」
恐る恐る時間を掛けて顔を上げて隣を見た。そこには満面の笑みのらみるちゃんがいた。
「私いいこと思いついちゃった。ね、私たち姉妹になろっか」
「は?」
「私が美夜日ちゃんの姉上様になってあげる」
「な、なに言ってんの。頭おかしくなったんじゃないの?!」
何でこの場で姉妹になるだのなんて話が出てくるのか。
「この士峰館学園の姉妹制度は知ってるよね。姉は妹を教え導く義務がある。『姉上様』って呼称は、自分が憧れ、尊敬、崇拝する上級生になら誰にでも、何人にでも用いていいんだ。例え姉妹の契りを結んでいなくってもね。だから美夜日ちゃんの気持ちが少しでも軽くなるなら、私を姉上様って呼んで話してみたらどうかな。別に憧れろとか敬え尊べって言いたいんじゃないよ」
らみるちゃんが、私の、姉上様?
「今だけでもいいからさ。ほら、どうぞ。私たち以外他に誰もいない今がいい機会だよ」
ドヤ顔をして拳でドンと胸を叩く。いつでも来いと言わんばかりだ。
「ヤダよ」
「照れてんの。かっわいい」
「かわいくないっ」
「ほらほら、軽い気持ちでさぁ」
「うるさいな」
「お試しご奉仕期間。黄金糖つけちゃう」
「なにそれ、いらない」
「さぁさぁ、いいから呼んでみて。美・夜・日」
らみるちゃんが初めて私のことを呼び捨てにした。
それが私の心をほんのちょっぴり動かした。
「…………あ、姉上様」
「きゃー。はい」
顔から火が出るほど恥ずかしい。だけど不思議と悪い気はしなかった。
もうこれ以上自分ひとりで抱えて、この世界を駆け回るのは無理だった。それほどまでに私は疲れ果てていた。
「聞いて欲しい。最初から。竹林でのことだけじゃない、今まで私にあったこと全部」
「うん、聞くよ。話して美夜日」




