9
連休を翌日に控えた木曜日の夜。
私は妙にそわそわした気持ちを落ち着かせようとしながら、クローゼットの奥からミケの移動用キャリーケースを引っ張り出していた。
「ミケ、明日は広いお家に行けるんだって」
床に座り込んだまま声をかけると、ミケはしっぽをゆらりと揺らしながら私の周りを一周する。
「お庭もあるらしいよ。楽しみだね」
「にゃあ」
返事をするように鳴いたミケの鼻先をつつく。
その瞬間だった。
――ピンポーン!!
部屋中に響き渡る勢いで、インターホンが鳴った。しかも一回ではない。妙にせっかちで、主張の強い連打。私はびくっと肩を揺らした。
「えっ、なに……」
一輝さんだろうか。いや、でも彼なら必ず事前連絡を寄越す。
『これから視察に行く。30分以内にミケをブラッシングしておけ』とか、『君の部屋の空気が淀んでいる気がする。換気して待て』とか。とにかく傲慢極まりないメッセージが来るはずなのだ。
時計を見れば、まだ十九時過ぎ。一輝さんが来るには少し早い。
私は少し警戒しながらインターホンへ向かった。
「はい、どなたですか?」
『よう、はる。開けろー』
その声を聞いた瞬間、私は顔を引きつらせた。
……うわ。今、一番会いたくない相手だ。
恐る恐るドアを開ける。そこに立っていたのは、私の実兄――なおだった。
使い古されたバックパックを肩に引っ掛け、ラフなパーカー姿のまま気だるそうに片手を上げる。少し伸びた無精髭に、日に焼けた肌。自由人、という言葉をそのまま人間にしたような男だ。
「元気してたか?」
「なお兄ちゃん……」
嫌な予感しかしない。そして大抵、兄に対する嫌な予感は当たる。
案の定、なおは私の返事も待たずに「お邪魔しまーす」と靴を脱ぎ散らかしながら部屋へ上がり込んだ。
「ちょっ、ちょっと待って! なんで急に来るの!?」
「悪い悪い。近くまで仕事で来てさ。今夜一晩泊めてくれよ、ホテル代浮かせたい」
「理由が最低!」
「お、なんだこの黒いの。猫飼い始めたのか?」
ミケが警戒するように背中を丸める。なおはそんな様子を面白そうに眺めながら、ひらひらと手を振った。
「はは、警戒心強いな」
「知らない男が急に来たからだよ。ミケにとってはただの不審者です」
なおは昔からこうだ。自由奔放で気まぐれで、世界中をふらふらしている。今はフリーランスのカメラマンらしいが、私から見れば「放浪癖を職業にした人」である。
けれど厄介なのは、この兄、異様に勘が鋭いことだった。
なおは部屋を見回しながら、ふっと目を細めた。
「……はる」
「なに」
「なんか部屋の空気、変わったな。男いるだろ」
「なっ……!」
あまりに直球すぎて変な声が出た。なおはにやりと笑う。
「女の一人暮らしにしては、男の痕跡が濃い。このワイングラス、お前の趣味じゃないし。あとあのルームシューズ」
なおが視線を向けた棚の端には、きちんと揃えられた黒のルームシューズ。サイズ感が完全に男性用で、無駄に高級感がある。
「あれ、二十八センチくらいあるだろ。……へえ、“友達”の忘れ物にしては、ずいぶん使い込んでるな?」
「うるさい!」
私は慌ててスリッパを物陰へ押し込んだ。遅い。完全に遅い。
なおが爆笑しかけた、その時だった。
――ピンポーン。
再びインターホンが鳴る。さっきとは違う、妙に堂々としていて、威圧感のある音。まるで「開けて当然だろう」と言わんばかりの鳴らし方。
私は頭を抱えた。終わった。ドアを開ける前からわかる。この世でこんなインターホンを鳴らす男は一人しかいない。
「はる、開けろ」
よく通るテノールがドア越しに響く。
「明日持っていくミケのオーガニックフードを届けに来てやった。君が選ぶ安価な餌では、ミケの毛並みが――」
私は絶望した。なおは面白がるように目を輝かせている。本当に最悪だ。
観念してドアを開ける。そこには、紙袋を片手に立つ瀬良一輝がいた。
黒のコート姿。髪も完璧に整っている。夜なのに雑誌の撮影帰りみたいな完成度だ。
「……瀬良さん」
「なんだ、その顔は。迎えの言葉も言えないのか?」
彼は怪訝そうに眉を寄せた。私の制止を完全に無視し、一輝さんは当然のように部屋へ入ろうとする。そして――ソファに座り、ニヤニヤしながらこちらを見ているなおの存在に気づいた。
空気が凍る。本当に、室温が数度下がった気がした。
なおもなおで、野生動物のような鋭い目で一輝さんを観察している。
互いに一歩も引かない視線。美形と自由人、猛獣同士の威嚇である。
「……はる」
一輝さんの声が、ぞっとするほど低くなった。
「そいつは、誰だ」
「ああ、どうも」
なおがひらりと手を上げた。
「はるの兄のなおです。君が噂の“スリッパの主”かな?」
一輝さんの眉間に、見たこともない深い皺が刻まれる。
「……兄?」
「そうです! 実の兄です!」
私は慌てて二人の間に割って入った。けれど一輝さんは、なおから目を逸らさない。視線が完全に、獲物を値探る肉食獣のそれだ。
「……ふん。似ていないな」
「は?」
「挨拶も満足にできないとは。人として終わっている」
「ははっ!」
なおが楽しそうに笑う。
「言うねえ。それはお互い様だろ。なあ、はる。お前、こんな傲慢男のどこがいいんだ?」
そして、さらっと私の肩へ腕を回した。
その瞬間、一輝さんの周囲の空気が爆発的に膨れ上がる。
「その手を離せ」
「一輝さん!?」
「たとえ血縁だろうと、不躾な男が私の、――彼女に触れるのは容認できない」
「へえ、独占欲の塊ねえ……」
なおの目が細くなった。空気が変わる。さっきまで面白がっていた兄の顔から、一瞬で余裕が消えた。
「瀬良さん、だっけ。あんた、はるをなんだと思ってる? 自分の言うことを聞くペットか何かか?」
一輝さんは鼻で笑う。
「そんな次元の話をしているのではない」
彼はまっすぐなおを見返した。
「私は、私が認め、守ると決めたものに対して、一切の妥協を許さないだけだ。彼女の価値を、君のような風来坊に判断されたくない」
低い声だった。けれど、その言葉には揺るぎがなかった。
「替えのきかないもの。それだけだ」
火花が散る。ミケは完全に「やばい」と察したらしく、テレビ台の裏へ音もなく避難した。賢い。
「……なるほどな」
なおがふっと笑い、突然バックパックから一眼レフを取り出した。
「じゃあ証明してみろよ。今から一分間、俺がはるを撮る。その間、一度でも俺のシャッターチャンスを邪魔できたら、兄として認めてやる」
「なんですかその謎ルール!?」
「いいだろう」
一輝さんはコートを脱ぎ捨てた。
「安い挑発だが、受けてやる」
そこから始まったのは、意味不明なのに異様なほど本気な攻防だった。
レンズを向けるなお。それを全力で、完璧な体躯で妨害する一輝さん。
「どけよ、美形」
「断る。君のレンズに、はるを映す価値はない」
一輝さんは私を自分の背後へ隠し、長い腕で完全にガードする。まるでびくともしない壁のようだった。
私は呆れながらも、その広い背中を見つめる。
孤独で、自分から人を遠ざけてきた人。でも今は、自分から必死に私を守るために手を伸ばしている。
「……降参、降参。あんた、最高に必死だな」
一分後、なおが笑いながらカメラを下ろした。「一枚も撮れなかったよ。すげえな、合格」
ケラケラと笑いながら、なおはバックパックを背負い直す。
「やっぱホテル行くわ。この空気の中にいたら胸焼けする。じゃあな、はる。こいつ、性格は最悪そうだけど、お前への気持ちは本物だわ」
嵐みたいに、兄は去っていった。
残されたのは、静かになった部屋と、少し髪の乱れた一輝さん。そして、恐る恐るテレビ裏から出てきたミケ。
「……一輝さん」
私は小さく笑った。「ごめんなさい。兄が変なことして」
「別に構わない」
彼はそっぽを向いたまま答える。けれど次の瞬間、私の手をぎゅっと握りしめてきた。
驚くほど強い力。そして、熱かった。
「……ただ」
「はい?」
「連休にあの男まで来ると言い出したら、私は確実にあの男を山に捨てていた」
「言いませんよ!」
思わず吹き出す。
「でも、あんなに必死になってくれるなんて思いませんでした」
私が笑うと、一輝さんは一瞬で耳まで真っ赤になった。そして勢いよく手を離す。
「勘違いするな!」
「はいはい」
「私はただ、君の締まりのない顔が写真に記録されるのを防いだだけだ」
「なんか酷くなってません?」
相変わらずの屁理屈。相変わらずの毒舌。
けれど、手のひらに残る熱だけは、本物だった。そんな不器用な愛情の重さが、今はどうしようもなく愛おしい。
「……さて」
一輝さんはわざとらしい咳払いをひとつした。
「ミケの餌も届けた。私は帰る。明日は朝五時に迎えに来る」
「ごっ……!?」
思わず変な声が出た。「五時!? 早すぎませんか!?」
「文句を言うな」
一輝さんは当然のように言い放ち、ドアノブに手をかける。
「私の別荘で、ミケと最高の朝日を見る。それが君の明日の最優先業務だ」
「ブラック企業!」
「光栄に思え」
そう言い残し、彼は颯爽と部屋を出ていった。
ドアが閉まる。静かになった部屋で、私は自分の頬が緩みっぱなしなことに気づいた。恥ずかしくなって、足元にすり寄ってきたミケを抱き上げる。
「……ミケ」
「にゃあ」
「私、とんでもない男に捕まっちゃったかも」
ミケは「今更気づいたのか」と言いたげに、呆れたように尻尾を揺らした。




