10
連休初日。
午前四時三十分。
スマートフォンのアラームが鳴るより少し早く、私はぱちりと目を覚ました。
部屋の中はまだ薄暗い。カーテンの隙間から見える空は、夜と朝の境界線みたいな淡い群青色をしていた。街灯だけが静かに灯り、いつも騒がしい通りも、今は別世界みたいに眠っている。
私は布団の中で小さく息を吐いた。
……眠い。眠いのに、妙に目が冴えている。
遠足前の子供みたいだな、と自分でも思う。
原因は、言うまでもなく一輝さんとの旅行だった。
正確には「ミケを連れて別荘へ行く」という名目の小旅行。けれど実際のところ、私は昨日からずっと落ち着かなかった。
服を何度も選び直し、荷物を確認しては閉じ、また確認し直す。ミケ用のおやつも、ブラシも、トイレシートも、全部完璧なはずなのに、なぜか不安で仕方ない。
これじゃまるで、本当に大好きな恋人との旅行を楽しみにしているみたいじゃないか。
……いや、実際もう、そうなのだけれど。
私は枕に顔を埋めて数秒ほど悶えたあと、観念して起き上がった。
「ミケ、おはよう」
「にゃ」
ベッドのど真ん中を占領していたミケが、眠たそうに片目を開ける。そのまま当然のように私の腕に頭を擦りつけてきた。可愛い。本当にこの子は、自分が可愛いことを完全に理解している。
私は苦笑しながらミケを抱き上げ、リビングへ向かった。昨夜のうちに準備しておいたボストンバッグを確認する。
着替え、化粧ポーチ、モバイルバッテリー、ミケ用品一式。よし、完璧。さらに念のためキャリーケースのロックを確認し、脱走防止ネットをバッグへ押し込む。
一輝さんはこういう準備不足に異様に厳しい。以前、私が猫用ウェットティッシュを切らしただけで、『危機管理能力が低すぎる』と真顔で説教されたことがある。猫用品で危機管理って何なんだ。
鏡の前へ立ち、自分の顔をじっと見た。少しだけ頬が赤い。緊張しているのが、自分でもよくわかる。
「……よし。五分前行動。これなら文句は言わせない」
その瞬間、マンションの外から静かなエンジン音が聞こえた。
時計を見る。午前五時ぴったり。
「うわ、本当にぴったり……」
一輝さんらしすぎて、逆に笑ってしまう。私はミケのキャリーを抱え、慌てて部屋を出た。
◇
エレベーターを降り、マンション前へ出る。そこで私は、少しだけ目を丸くした。
停まっていたのは、シルバーメタリックのプリウスだった。しかもかなり新しいモデル。
私は思わず車と周囲を見比べる。……え? これ、一輝さんの車?
てっきり私は、真っ赤なスポーツカーとか、黒塗りの高級外車とか、そういう“圧の強い車”を想像していたのだ。なのに現実は、驚くほど堅実なハイブリッドカー。
運転席の窓が静かに下がった。
「何を突っ立っている」
現れたのは、もちろん一輝さんだ。まだ薄暗い早朝だというのに、髪は完璧に整い、黒のニット姿が異様に絵になっている。
「一秒の狂いもないな。感心した」
彼は腕時計を確認しながら言った。
「早く乗れ。排気ガスを出す時間は一分だって惜しい」
「おはようございます……」
私は苦笑しながら助手席へ乗り込む。ミケのキャリーは後部座席へ慎重に固定した。ミケは最初こそ不安そうだったが、車内が静かなせいか比較的落ち着いている。
私はシートベルトを締めながら、ちらりと一輝さんを見た。
「正直、もっと派手な車に乗ってるかと思ってました」
「効率だよ、はる」
一輝さんはふん、と鼻を鳴らした。
「この車は静粛性と燃費において、現時点で最も合理的な選択肢の一つだ。それに――」
一輝さんは淡々と続ける。
「目立つ車で君のような小動物を連れ回してみろ。下手なパパラッチに嗅ぎつけられたら面倒だ」
「小動物って誰ですか」
「君だ」
「否定の余地もないんですね」
「当然だ。早くシートベルトを馴染ませろ」
さらっと言い切られ、私は呆れながら笑った。
プリウスが静かに走り出す。ハイブリッド特有の、ほとんど音のしない滑らかな発進。まるで夜の街を滑るように進んでいく。
早朝の都心は驚くほど静かだった。
昼間なら渋滞している大通りもがら空きで、信号だけが規則正しく瞬いている。街灯の光が一定間隔で車内へ差し込み、一輝さんの横顔を照らしては消していく。
長い睫毛。高い鼻筋。ハンドルを握る綺麗な指。
……本当に、ずるいくらいに綺麗だ。
「……一輝さん」
「なんだ」
「あの、今日、本当に楽しみなんです。ミケも、私も」
私が小さく言うと、一輝さんは前を向いたまま答えた。
「ふん。当然だ。私が運転する車に乗って、私が選んだ場所に行くんだ。楽しめないはずがないだろう」
「すごい自信」
「事実だからな」
相変わらずだ。でも、その声はどこか柔らかかった。
「……寝ていてもいいぞ。目的地まで二時間はかかる」
「眠くないですし、一輝さんが運転してるのに悪いです」
「そうか」
そう突き放しながらも、彼はエアコンの温度をそっと上げた。さらにオーディオの音量を下げ、静かなピアノ曲へ変える。私がうとうとしやすい絶妙な音量に。
あまりにも自然な動作だった。
今の私は知っている。この人が、本当は誰より細かく周囲を見ていることを。誰より不器用で、誰より優しいことを。
私は窓の外へ視線を向ける。東の空が、ゆっくり白み始めていた。
車は高速道路へと入り、街の灯りが次第に遠ざかっていく。車内には心地よいピアノの旋律だけが流れ、一輝さんの穏やかな呼吸と、後部座席でミケが寝息を立てる音だけが聞こえる。
「……ありがとうございます」
思わず口をついて出た言葉に、一輝さんはわずかに眉をひそめた。
「何の話だ」
「今日、連れて行ってくれること。それと……いつも、細かいところまで気にかけてくれること」
一瞬、沈黙が流れた。
彼はハンドルを握り直し、前を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……バカなことを言うな。君が楽しむのは当然の権利だ。それに」
彼は少し間を置いた。
「君が笑っている方が、私も気分がいい」
その言葉に、私の胸がじんわりと、熱いくらいに温かくなった。
「……一輝さん、それって……」
「黙って寝ろ。まだ早い」
そう言って彼は、私のシートのレバーを引き、わずかに後ろへ倒した。
私はもう抵抗せず、そのまま倒されたシートに身を預けて窓の外を見つめた。
空の群青色が、少しずつ、柔らかな朝焼けのオレンジに薄れていく。
夜明け前の、この不思議な時間。世界がまだ眠っている間に、私たちだけが目を覚まして、同じ方向へ向かっている。そんな特別な感覚が、私の心を満たしていった。
ミケがキャリーの中で小さく寝返りを打つ。
一輝さんが小さくため息をついた。
「……あの猫も、君に似て図々しいな」
「似てますか?」
「似ている。特に――人の懐に、いつの間にか入り込んでいるところが」
私はくすりと笑った。
「それは、褒め言葉ですか?」
「どう思う?」
バックミラー越しに、彼の口元がほんの少しだけ、優しく緩むのが見えた。
私はゆっくりと目を閉じた。
ピアノの音が、心臓の鼓動と重なる。エンジンの微かな振動。隣にある、一輝さんの確かな気配。すべてが、私を優しく包み込んでいく。
連休初日の夜明け。
この旅が、どんな思い出になるのかはまだ分からない。
ただ一つ確かなのは。
隣にこの人がいてくれる、それだけで、今日という日が特別な一日になるのだと、私はもう心の底から信じていた。
車は、夜明けの光が差し込み始めた高速道路を、どこまでも静かに走り続けていた。




