11
中央道を下り、八ヶ岳の裾野を縫うようにしてプリウスは標高を上げていく。
窓の外の景色は、いつの間にか都会の色を完全に失っていた。背の高い針葉樹が道の両脇を埋め尽くし、朝靄が白いヴェールみたいに森の奥を漂っている。木漏れ日が霧を淡く照らし、まるで別世界へ入り込んだようだった。
私は助手席からその景色を眺めながら、小さく息を呑む。
「……すごい」
「田舎だろう」
ハンドルを握ったまま、一輝さんが淡々と言う。
「都心に慣れた人間には、退屈な場所かもしれないな」
「そんなことないです」
私は即座に首を振った。むしろ逆だった。静かで、空気が澄んでいて、胸の奥まで洗われるみたいだった。
ミケも後部座席のキャリーの中で落ち着いている。時折「にゃ」と小さく鳴きながら、窓の外を興味深そうに眺めていた。
さらに山道を進み、森を抜けた――その瞬間だった。視界が一気に開ける。
「……え」
思わず声が漏れた。
そこにあったのは、一軒の邸宅だった。ガラスと木材を大胆に組み合わせたモダンな建築。けれど奇抜なだけではない。周囲の森や山々と不思議なくらい調和していて、まるで最初からこの土地の一部だったみたいに自然に佇んでいる。
大きなウッドデッキ。天井まで伸びる窓。木漏れ日を受けて輝くガラス。高級リゾートホテルみたいなのに、どこか静かで温かい。
私はぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。
「……ここ、一輝さんの家の別荘ですか?」
「そうだ」
彼は当然みたいに頷く。
「着いたぞ。ここが、私の“聖域”だ」
聖域。その言葉が妙にしっくりきた。ここはたしかに、誰にも踏み荒らされたくない、彼だけの秘密基地みたいだった。
車を降りると、冷たい空気が肺いっぱいに流れ込んでくる。思わず深呼吸した。土と木の匂い。風の匂い。東京では決して感じられない、圧倒的な静けさ。
一輝さんは慣れた手つきでミケのキャリーを持ち上げ、玄関の電子ロックを解除した。
室内へ入った瞬間、私はまた息を呑んだ。
広い。リビングは吹き抜けになっていて、壁のほとんどが大きな全面窓だった。その窓の向こうには、燃えるような朝焼けに染まった南アルプスの山々が広がっている。空は淡いオレンジと青の境界線を揺らし、遠くの山頂だけが白く光っていた。
美しすぎて、しばらく言葉が出ない。
「……すごい」
私はようやくそれだけを呟いた。
「本当に、ここを独り占めしていいんですか?」
すると一輝さんは靴を脱ぎながら、ふっと口元を緩めた。
「独り占めではない。正確には、私と君とミケの三人だな」
ミケはキャリーから出されると、最初は慎重に辺りを窺っていた。けれどすぐに、床暖房の入った無垢材のフローリングの快適さに気づいたらしい。しっぽをぴんと立てて、広いリビングを探検し始める。
その様子を見て、一輝さんがわずかに目を細めた。
……優しい顔。
会社では絶対に見せない表情だ。ここにいる一輝さんは、まるで仮面を外した別人みたいだった。
「はる」
「はい?」
「キッチンに最高級の豆がある。私の舌を満足させる一杯を淹れてこい。私はテラスの準備をする」
「了解です、王様」
「返事だけは優秀だな」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
いつもの軽口。でも、そのやり取りすらどこか心地いい。
私は笑いながらキッチンへ向かった。そこには、一輝さんらしい几帳面な空間が広がっていた。調理器具は完璧に整頓され、コーヒー器具も専門店みたいに並んでいる。
私は木製の手挽きミルを手に取った。豆を入れ、ゆっくり回す。ゴリ、ゴリ、という規則正しい音が静かな部屋へ溶けていく。不思議と心が落ち着く音だった。
◇
コーヒーを淹れ終え、二つのマグカップを持ってテラスへ出る。冷たい風がそっと頬を撫てた。
一輝さんはデッキチェアへ深く腰掛け、遠くの山を見つめていた。その横顔に、いつもの鋭さはない。会社で見せる完璧な仮面が、完全に剥がれている。
静かで、穏やかで。そして少しだけ、寂しそうだった。
私は隣へ座り、そっと温かいコーヒーを差し出す。
「……一輝さん。ここ、お父様との思い出の場所なんですか?」
その瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。驚いたみたいにこちらを見る。
「……よくわかったな」
「なんとなくです」
一輝さんはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと視線を山へ戻す。
「ここは」
彼が静かに口を開く。
「私が唯一、『完璧でいなくていい』場所だった」
私は黙って続きを待った。山の風が静かに吹き抜けていく。
「父は厳しい人だった」
一輝さんは淡々と話し始めた。その声音には不思議なくらい感情が交じっていない。きっと、何度も心の中で繰り返してきた記憶なのだろう。
「常に結果を求めた。九十九点では足りない。百点を取って当然。運動も、勉強も、礼儀も、見た目も、全て完璧であることが我が家では前提だった」
「幼い頃、熱を出したことがある。高熱でまともに立てなかった。だが翌日は全国模試があった」
私は小さく眉を寄せた。「まさか……」
「体調不良も管理できないのは自己管理の怠慢だと言われ、結局受けさせられたよ」
さらりと言う。一輝さんは笑わなかった。怒りもしない。ただ、静かに語る。それが余計に切なかった。
「結果は全国二位だった」
「二位……」
「父は言った。『なぜ一位を逃したか、分析しろ』と」
私は思わず唇を噛んだ。そんな環境で育ったら、誰だって自分を追い詰めてしまう。失敗が恐怖に変わる。
「怖かったんだ」
一輝さんがぽつりと呟いた。
「一度でも失敗したら、自分の価値がすべてなくなる気がした。だから、常に先に相手を否定した。傷つく前に傷つけた。完璧な壁を作っていれば、誰も近づけない、誰も私を脅かせないと思った」
私は静かに彼を見つめた。この人はずっと、ずっと一人で戦ってきたのだ。
「……でも、ここだけは違ったんですか?」
私が小さく尋ねると、一輝さんはほんの少しだけ目を細めた。
「父に、ここへ連れてこられたことがある。十二歳の頃だった」
その日も、今みたいな朝だったらしい。山の空気は清涼で冷たく、父親はなにも言わず黙々と薪を割り、暖炉へ火を入れていた。幼い一輝さんは、その隣でただ怯えながら座っていたという。
「私はその時も、テストの結果が気になっていたんだ。父に怒られると思っていた。九十八点だったからな」
彼は小さく、自嘲気味に笑った。
「寒くて、でも何を話していいか分からなくて、ただ黙って縮こまっていた。けれどあの時、父は何も聞かなかった。点数も、順位も、学校で何があったかも。しばらくして、ひとことだけ言ったんだ。『ここでは何もしなくていい』と」
「不思議だった」
一輝さんは遠くを見る。
「人生で初めて、『評価されない時間』を過ごした。……だから、ここは私の錨なんだ。完璧じゃなくても、ここにいれば私は消えない」
その言葉に、私は胸がぎゅうと締めつけられた。評価されない時間。それは普通の人には当たり前すぎて、意識すらしないものだ。でも、幼い彼にとっては、それだけが唯一の救いだったのだ。
私はしばらく何も言えなかった。代わりに、そっと彼の隣へ距離を詰める。そして静かに、彼の広い肩へ頭を預けた。
一輝さんの身体がわずかに強張る気配がした。けれど、彼は私を振り払わなかった。ただ、ほんの少しだけ、肩の力を抜いて私を受け入れてくれた。
私たちはしばらくそのまま、山の朝を眺めていた。ミケがデッキにひょっこり現れ、一輝さんの足元にすり寄る。彼は無言のまま、愛おしそうにミケの頭を撫でた。
「はる」
「はい」
「君も、ここにいていい」
彼はまだ山を見たまま、静かに、けれど確かな熱を込めて言った。
「完璧じゃなくていいから」
その言葉に、視界がじんわりと熱くなった。そっと彼の手を握り返す。冷たい彼の指が、私の体温で少しずつ温まっていく。
「ありがとう」
「……何を感謝しているんだ」
「ここに連れてきてくれて」
一輝さんは少し間を置いて、小さく、愛おしそうに頷いた。
「ああ」
風がまた吹き抜ける。森の木々がざわめき、遠くで鳥の声が聞こえる。
この場所が彼の聖域であるなら。私もまた、ここで少しだけ、彼の本当の世界に触れることを許されたのだ。
「コーヒー、もう一杯淹れようか」
「……うむ。頼む」
私は立ち上がり、もう一度キッチンへ向かった。振り返ると、一輝さんがミケを膝に乗せ、遠くの山々を眺めている後ろ姿が見えた。
その背中は、会社で見るどの姿よりもずっと小さく、そして、温かそうだった。
ここは聖域。けれどもう、彼一人だけの孤独な場所ではない。私とミケが、ほんの少しだけ、その世界を分け合っている。
それだけで、胸がいっぱいになった。
山の朝はまだまだ続く。そして私たちには、この静かな時間が、たっぷりと残されていた。




