12
午前中、私たちは邸宅から少し離れたプライベートレイクへ向かった。
森の中を抜ける細い道は、車一台がやっと通れるほどの幅しかない。左右では背の高い草が風に揺れ、プリウスの静かな走行音だけが朝の森へ溶けていく。
「……本当にこんなところに湖なんてあるんですか?」
「あるから来ている」
いつもの調子で返されて、私は苦笑した。
やがて、ふっと風が止む。その瞬間、世界そのものがひとつ音量を下げたみたいな錯覚に陥った。
視界が開ける。
そこには、小さな湖が広がっていた。
湖面は鏡みたいに静かで、空の青と木々の緑をそのまま映している。風が吹くたび、水面だけに小さな波紋が走り、きらきらと光が揺れた。周囲には誰もいない。人工物の気配も、ほとんどない。
まるで、世界から切り離された場所だった。
車を降りた瞬間、空気の澄み方がまるで違うのがわかる。
「すごい……。ここ、本当に個人の土地なんですか?」
「私の知人の所有だ。使用許可は取ってある」
一輝さんは当然みたいに頷く。
「『知人』って便利な言葉ですね」
「事実だ」
淡々と返され、私はまた苦笑した。
そう言いながら、一輝さんはプリウスのトランクから大きなピクニックバスケットを取り出す。しかも、その動作が妙に様になっていた。ニットの袖を軽く捲り、無駄のない動きでレジャーシートを広げていく。
まるで雑誌のグラビア撮影現場みたいだ、と思う。
「……なんか、絵になりすぎて緊張します」
「意味がわからない」
本人は本気でわかっていない顔をしている。私は笑いながら隣へ座った。
バスケットの蓋が開く。その瞬間、思わず目を丸くした。
「えっ……」
中には、色鮮やかな料理が整然と並んでいた。ハーブの香りがするテリーヌ、薄くスライスされたローストビーフ、焼き立てらしいバゲット、みずみずしい季節の果物。しかも全部、異常なくらい美しい。
「……一輝さん、これ、まさか自分で?」
「まさか。信頼できるシェフに特注した。君に任せるより安全だ」
「言い方がひどい」
「事実だ」
「でも、ものすごく美味しそう……」
素直に感嘆すると、一輝さんはほんの少しだけ得意げに顎を上げた。
「当然だ。素材も調理法も、すべて私が指定している」
「料理界のラスボスみたいな発言やめてください」
それから私たちは湖畔でゆっくり昼食を取った。風の音を聞きながら。時々ミケがキャリーの中から「にゃあ」と鳴く声に耳を傾けながら。会社では絶対に見られない、穏やかな時間。
「そういえば」
私がバゲットを齧りながら言う。
「営業部のサトミさん、最近総務の高橋さんと付き合ってるらしいですよ」
「知っている」
「知ってるんですか!?」
「給湯室で視線の動きが不自然だった」
「怖っ……」
「観察力と言え。あと、高橋は先週から香水を変えた。恋愛感情による自己演出の変化だろう」
「もう探偵じゃないですか」
「君は人間観察が甘い」
「その能力をもっと平和利用してください」
そんなくだらない会話をしているだけなのに、どうしようもなく楽しかった。
都会では、常に時間に追われている。締切、会議、数字、人間関係、誰かの視線、誰かの評価。
でもここには、それがない。あるのは風の音と、湖の匂いと、目の前で平然と毒舌を吐いている不器用な男だけだった。
「……この空気、とても気持ちいいですね」
「当然だ。私が選んだ場所だからな」
一輝さんはワインの代わりに炭酸水を飲みながら、淡々と答えた。その横顔は、いつもの鋭さが少しだけ和らいでいる。私はそれを見て、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じていた。
◇
夕暮れが近づく頃、私たちは邸宅へ戻った。空の色がゆっくりとオレンジから紫へ移ろい、山の影が長く伸びていく。
キッチンに立つと、一輝さんは当然のように腕まくりをした。
「さて、夕食の準備を始めるぞ」
「えっ、一緒に作るんですか?」
「君一人に任せたら台所が壊滅する」
「そこまで!!?」
広いアイランドキッチンは、モデルルームみたいに整っていた。私はジャガイモを取り出し、ピーラーを手にする。
しかし――。
「……おい、はる」
早速、一輝さんの低い声が飛んだ。
「その剥き方は何だ」
「え?」
「厚すぎる。栄養素まで剥がしてどうする」
「だってピーラー苦手なんです!」
「信じられない。貸せ」
次の瞬間、私の手からピーラーが奪われた。
そして、シュッ、シュッ、と軽快な音。
驚くほど綺麗だった。皮が紙みたいに薄く、均一に剥かれていく。無駄が一切ない。
「……すご」
「当然だ。人間は努力次第でここまで洗練されるという見本だ」
「いちいち言い方が腹立ちますね。でも、本当に綺麗……」
「……一輝さんって、実は家事の才能ありますね」
私が感心して言うと、彼は一瞬だけ動きを止めた。
「才能ではない。必要に迫られた結果だ。君に任せるより、確実だ」
「……本当に、失礼です」
私は一歩近づき、小さく言った。
「……でも、それ。本当は私のためにやってくれてるんですよね」
思わず、感じていたことが口からこぼれた。
その瞬間、一輝さんの手が完全に止まった。
キッチンの空気が、一瞬で静まり返る。
彼はゆっくりと顔を上げた。キッチンの暖色の灯りが、長い睫毛の影を頬に落とす。その冷たいようで熱い瞳が、まっすぐ私を捉えた。
綺麗だった。息を呑むくらい。
次の瞬間、彼の長い指先が、そっと私の頬に触れた。さっきまでジャガイモを剥いていた指。なのに今は、信じられないくらい熱い。
呼吸が止まる。距離が近い。近すぎる。このまま、何かが起きる――。
「にゃあ!!!」
鋭い声がキッチンに響き渡った。空腹に耐えかねたミケが、一輝さんの足に爪を立てて登ろうとしていた。完全に、一ミリも空気を読んでいない。
「……っ、ミケ!!」
一輝さんは現実に引き戻されたような顔をして、ミケを引き剥がした。
「……っ! ミケ、この……タイミングの悪い奴め!」
「にゃー!」
私はたまらず吹き出した。その姿がおかしくて、愛おしくて、しばらく笑いが止まらなかった。
◇
夜になると、空気はいっそう冷え込んだ。
テラスに出ると、一輝さんが焚き火台に火を入れる。ぱち、ぱち、と薪の爆ぜる音が響いた。炎の橙色が、暗い夜の中で揺れている。
見上げれば、満天の星空だった。都会では決して見られないほどの星の数。空が落ちてきそうなくらい、近い。
一輝さんはミケを膝に乗せ、私はその隣に腰を下ろした。同じ毛布にくるまりながら、肩が少し触れるくらいの距離。
「……はる」
炎を見つめたまま、一輝さんが言う。
「連休が終われば、また日常に戻る」
「そうですね」
私は小さく笑った。「また毒舌地獄ですね」
「地獄とは失礼だな」
言葉とは裏腹に、やわらかなテノールが返ってくる。
「でも、もう慣れてきたので大丈夫です」
「生意気だな」
小さく笑う気配がした。
焚き火の炎が、一輝さんの横顔を揺らしている。オレンジの光と影が交互に落ちて、普段よりずっと人間らしい表情を見せていた。
私はそっと肩を寄せる。すると、一輝さんは少し驚いたようにこちらを見た。けれどすぐに何も言わず、私の肩を引き寄せた。
一瞬で、距離がなくなる。
彼の腕の中は、思ったよりずっと落ち着く場所だった。焚き火の音、風の音、遠くの虫の声がゆっくりと混ざり合っていく。
「……悪くないな」
ぽつりと、一輝さんが言った。その声が、やけに優しく響く。
「……はる」
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がきゅっと熱くなる。
彼はゆっくりと距離を詰めてきた。焦りはない。迷いもない。頬に触れた指先は、焚き火のぬくもりをまとっているみたいに、妙に優しかった。
そして――そっと触れるだけの、やさしいキス。
その瞬間、世界から音が消えた気がした。薪の爆ぜる音も、風の音も、遠くの虫の声さえも、全部がふっと遠のいていく。
一度離れた唇が、ほんの少しだけ迷うように、また近づいてくる。今度はさっきより、わずかに深く。それでも強引さなんてどこにもなくて、ただ確かめるみたいに、静かで丁寧な温度だった。
八ヶ岳の星空は、降ってきそうなほど澄んでいる。その下で、二人の呼吸だけが静かに重なっていく。
やがて一輝さんは、そっと額を合わせてきた。焚き火の光が揺れて、その表情をやわらかく照らす。
「……寒いな」
ぽつりと落ちた声は、少しだけ名名残惜しそうだった。
「……ねえ、一輝さん」
「なんだ」
「明日の朝、コーヒー淹れてくれますか?」
一瞬の間があってから、意地悪な返事が落ちる。
「……私の気分次第だ。ただし、君が寝坊しなければな」
一輝さんに抱き込まれていたミケが、小さく「にゃあ」と鳴いた。
焚き火の音が、ゆっくりと夜に溶けていく。
不器用で、傲慢で、優しくて。欠けているのに、なぜか完璧に噛み合ってしまう存在。
焚き火の炎がぱちりと小さく弾けた瞬間、一輝さんがふとこちらに視線を向ける。その目には、いつもの鋭さなんてどこにもなかった。まるで山の夜と星空をそのまま閉じ込んだみたいに、静かで柔らかい色をしている。
一輝さんは毛布を整え、ミケを抱き上げた。そして自然な流れで、私の手を取る。
「中に入るぞ。風邪を引かれても困る」
ぶっきらぼうな言い方なのに、その手だけはやけに優しい。外の冷たい空気と、手のぬくもりの落差がうれしかった。テラスからリビングへ戻る短い時間でさえ、さっきの余韻が心に沁みていく。
やがて扉が閉まると、室内の温もりがふわりと私たちを包み込んだ。
「……はる」
いつもより優しく聞こえるのに、どこか強く響くテノール。
見上げると、一輝さんがそこにいた。さっきより少しだけ焦れたように、でも、それを隠す気もない真っ直ぐな顔で。
「……もう一度、いいか?」
その言葉は、問いかけというより、確信に近かった。
私は何も答えず、そっと彼の胸に顔を埋めた。
それだけで、すべての返事になった。
湖のほとりで始まった一日は、星空の下で、静かに、確かに、二人だけの物語へと変わっていった。




