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漆黒の王子、その名はミケ
ボクの名前はミケ。
この「ミケ」という響きが、人間の世界では「三色の毛を持つ猫」を指すことが多いらしいことは、最近覚えた。
けれどボクは、どこからどう見ても、闇夜を切り取ったような完璧な漆黒の美猫だ。
名付け親は、あの背が高くていつも不機嫌そうな顔をした「カズキ」。
彼はボクのことを「高貴な漆黒」だなんて呼んで悦に入っているけれど、ボクにしてみれば、名前なんて温かい寝床と美味しいごはんを運んでくる合図に過ぎない。
あの日、冷たい雨の中でボクが震えていた時、泥だらけになってボクを拾い上げたのは、あの大きな手の持ち主だった。
彼はボクを「はる」という、お日様の匂いがする女の子の家に預けた。
以来、ボクの生活は一変した。
狭いけれど居心地のいい部屋。柔らかいクッション。そして、時々やってきてはボクの喉を鳴らさせる、不器用なカズキの指先。
ボクはこの二人のことが、まあ、嫌いじゃない。
◇
連休の初め。
まだお月様が空に残っているような早い時間に、ボクはキャリーケースという「持ち運び用の檻」に押し込まれた。
いつもなら全力で抗議の声を上げるところだけれど、はるが「ミケ、一緒にお出かけだよ」と楽しそうに笑うから、ボクも少しだけ期待してやることにした。
外で待っていたのは、銀色の大きな箱。
カズキが運転する「プリウス」という乗り物だ。
猫の耳はとても敏感だから、大きな音を立てる乗り物は大嫌いなんだけれど、この箱は驚くほど静かだった。まるで雪の上を滑っているみたいに、スルスルと走り出す。
「ミケ、いい子にしてるわね」
はるが助手席からボクを覗き込む。
ボクは少しだけ不安だったけれど、カズキの運転はとても丁寧で、ボクの体が揺れないように気を配っているのがわかった。
「……ふん。ミケは私に似て、聡明だからな。無駄な騒ぎは起こさない」
カズキが前を向いたまま、そんなことを言っている。
相変わらず、可愛げのない喋り方。でも、ボクにはわかる。
彼が時々バックミラー越しにボクの様子を伺うたび、その瞳が少しだけ優しく緩むのを。そして隣に座るはるを見る時の彼の匂いが、甘くてくすぐったいような特別なものに変わるのを。
◇
銀色の箱が止まった先には、見たこともないほど大きなおうちがあった。
高い天井、どこまでも続く廊下。そして、大きな窓の向こうには、青く染まる空と高い山が見える。
「……すごい。本当に、ここを独り占めしていいんですか?」
はるが目を丸くしている。
ボクはキャリーから出されると、まずは四肢を思い切り伸ばしてあくびをした。それから、一歩ずつ慎重に、この新しい縄張りをチェックして回る。
床が温かい。
カズキが「床暖房」とかいう魔法の仕掛けを動かしてくれたおかげだ。ボクはすっかりここが気に入った。
リビングの真ん中でゴロンと寝転がり、はるとカズキが忙しそうに動くのを眺めることにする。カズキはテラスで椅子を並べ、はるはキッチンで美味しそうな匂いの飲み物を用意している。
二人とも、いつも「会社」という場所では、尖った爪を出して戦っているみたいだけれど、ここではとても柔らかい空気をまとっている。
ボクは思う。人間っていうのは、本当に面倒な生き物だ。
思っていることをそのまま言葉にすればいいのに、わざわざ遠回りをしたり、わざと嫌なことを言ったりする。
カズキなんて、はるにコーヒーを淹れさせて「私の舌を満足させろ」なんて言っているけれど、本当ははるが自分のために動いてくれるのが、嬉しくてたまらないくせに。
ボクには、彼の尻尾が(もしあればだけれど)、パタパタと喜びで揺れているのが見える。
◇
日が沈みかけて、家の中がオレンジ色に染まる頃。
キッチンでは二人が「ごはん」の準備を始めた。
ボクはもう、お腹が空いて限界だった。
それなのに、二人はいつまで経ってもボクのお皿にカリカリを入れてくれない。ジャガイモだの、ピーラーだの、なんだか難しいことで言い合っている。
ふと見ると、カズキがはるの頬に触れようとしていた。二人の距離が、どんどん近くなる。空気がなんだか甘酸っぱい。はるの顔は真っ赤で、カズキの瞳はいつになく熱い。
(……おいおい。そんなことより、ボクのごはんはどうなったんだ?)
ボクは決断した。
「にゃあ!!!」(ごはん!)
ボクは全力で鳴き、カズキの足にしがみついた。ズボンを登ろうと、自慢の爪を思い切り立ててやる。
「……っ! ミケ、この……タイミングの悪い奴め!」
カズキが飛び上がって叫んだ。二人の間にあった、あの妙な空気が一瞬で弾け飛ぶ。
はるはそれを見て、お腹を抱えて笑い出した。
「ふふ、あははは! ミケ、ナイス!」
カズキは不機嫌そうにボクを抱き上げたけれど、その瞳に本気の怒りはなかった。彼はボクの頭を少し強めに、でも愛情を込めて撫でてから、ようやくボクのお皿にごはんを用意してくれた。
作戦成功だ。
◇
夜になると、外で火が燃え始めた。
パチパチという音と、木の燃えるいい匂い。
ボクはカズキの膝の上に乗せられた。彼の膝は少し硬いけれど、安定感があって、何よりとても温かい。隣には、毛布にくるまったはるが座っている。
「連休が終われば、また日常に戻る」
カズキが低い声で言う。
ボクは彼の胸に顔をうずめていたから、その言葉とともに、彼の心臓が「トクン、トクン」と少し速く打つのを感じていた。
彼は怖いんだな、とボクは思った。
この温かくて静かな時間が、いつか消えてしまうのを恐れている。はるが自分のそばからいなくなるのを、誰よりも怖がっている。
ボクは、彼の膝の上で「グルグル」と大きな音を立てて鳴いてやった。
大丈夫だよ。ボクがここにいるし、はるもあんなに楽しそうに笑っている。はるは、君のその面倒くさい性格も含めて、ちゃんと見てくれているよ。
はるがカズキの肩に頭を乗せる。カズキも、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
二人の鼓動が、ボクの体を通じて一つに重なる。
ボクを拾ったこの男は、どうしようもなく不器用で。
ボクを育てているこの女の人は、どうしようもなくおおまかでお人好しだ。
神様っていうのが何をしてるのかボクには分からないけれど。
この二人を一緒にしたことだけは、ボクがごほうびにちゅ~るをあげてもいいくらい、いい仕事だと思う。
「にゃあ……」
ボクは眠りに落ちる前、最後にもう一度だけ鳴いた。
明日の朝、また銀色の箱に乗って、どこへ行くのかは分からない。
けれど、この二人のそばにいる限り、世界はいつだって少しだけ面倒で、そして少しだけ優しい。
そしてたぶん、その“少しだけ”が積み重なったものを、人間たちは「幸せ」と呼んでいるのだと思う。
漆黒の王子の休日は、まだ始まったばかりだ。




