8
季節がひとつ巡り、ミケが完全に我が家の主として君臨し始めた頃。私の生活は、ずいぶん変わっていた。
朝は「にゃあ」というご飯の催促で起こされ、仕事から帰れば玄関まで駆け寄ってくる黒い毛玉を出迎える。休日には猫用おやつのストックを確認し、気づけばスマホのアルバムはミケの写真で埋め尽くされていた。
そして、その生活には当然のように瀬良一輝が入り込んでいる。
最初は週に一度だった「視察」も、最近では「近くまで来たから」「ミケが寂しがるから」という適当な理由をつけて頻度が増えつつあった。しかも本人は、その異常さをまったく自覚していない。
この前なんて、私が残業で帰宅が遅れた日に、**『ミケが君を探して五分おきに鳴いている』**というメッセージと共に、私の部屋のソファでくつろぐミケの写真が送られてきた。なぜあなたが先に私の部屋にいるんですか。合鍵は渡していない(※お留守番用の予備鍵の場所を教えてしまったのが運の尽きだった)。もはや恐怖である。
けれど不思議と、本気で拒絶したいとは思わなかった。あの雨の日以来、瀬良さんの中にある不器用さや寂しさを知ってしまったからだろう。
会社では相変わらず尊大で、口を開けば嫌味ばかりだ。でも時々、ほんの一瞬だけ、置いていかれることを怖がる子供みたいな表情をするのを、私は見逃さなかった。
◇
その日も、私はいつも通り給湯室でコーヒーを淹れていた。昼休み前の社内は比較的穏やかで、廊下からは社員たちの雑談が微かに聞こえてくる。そこへ、柔らかな声が降ってきた。
「はるちゃん」
振り返ると、他部署の佐藤さんが立っていた。穏やかな笑みを浮かべた、感じのいい先輩。物腰が柔らかく、誰にでも優しい人で、社内では密かに人気が高い。瀬良さんとは、まさに正反対のタイプだった。
「今度、新しくできたイタリアン、一緒に行かない?」
「あ、えっと……」
突然の誘いに戸惑う。別に嫌ではない。むしろ佐藤さんは話しやすいし、一緒にいて安心できるタイプだ。
そう思った、その瞬間だった。
背筋を、ぞわりと冷たいものが撫てた。空気が一瞬で一変する。嫌というほど体に染みついている、あの圧倒的な圧。
「……はる」
低い声。振り返る前から誰かわかった。いつの間に現れたのか、瀬良さんが私のすぐ後ろに立っていた。信じられないほど顔が怖い。
「その企画書の修正、まだ終わっていないのか?」
「えっ、あ、それは午後の会議用なので、まだ途中で――」
「今すぐやれ。私の時間に無駄は要らない。時間を無駄にする人間も必要ない」
ぴしゃり、と言い切る。給湯室の空気が完全に凍りついた。佐藤さんが困ったように苦笑いを浮かべる。
「瀬良くん、そんな言い方しなくても――」
「あなたには話しかけていません」
即答だった。怖い。怖すぎる。佐藤さんはさすがに少し引いたような顔をしたが、それでも大人の対応で「……はるちゃん、また今度誘うよ」と苦笑しながら去っていった。
去っていく背中を見送りながら、私は罪悪感で胃が痛くなる。そして同時に、隣に立つ男への怒りがじわじわと込み上げてきた。
「……瀬良さん。今の言い方、あまりにも失礼です」
瀬良さんは眉ひとつ動かさない。むしろ不機嫌そうに切れ長の目をさらに細めた。
「あんな薄っぺらい愛想を振りまく男のどこがいいんだ」
「別にいいなんて一言も言ってません!」
「食事に誘われていただろう」
「ただのご飯です!」
「男が女を食事に誘う意味くらい理解している」
「だからって、あんな言い方――」
「行くな」
低い声だった。けれど、その一言には妙な熱が籠もっていた。私は思わず言葉を失う。
瀬良さんはそのまま私の腕を掴み、ぐい、と自分の方へ引き寄せた。背中が壁に触れる。逃げ道を塞ぐみたいに、彼の長い腕が私の頭の横についた。
近い。近すぎる。香水とも柔軟剤とも違う、彼特有の清潔な匂いがふわりと降ってくる。
「……瀬良さん?」
名前を呼ぶと、彼はほんの一瞬だけ視線を揺らした。怒っている。けれどそれ以上に、何かに激しく焦っているような顔だった。
「……ミケが、待ってるだろ」
「は?」
予想外すぎて間抜けな声が出た。瀬良さんは私の腕を掴んだまま、わずかに目を逸らす。
「君が帰らないと、あいつは鳴く」
「いや、ミケは結構マイペースですよ」
「私じゃダメなんだ」
ぽつり、と。その声だけが、妙に弱かった。
「……あいつを、寂しがらせるな」
私は数秒、沈黙した。それから、じわじわと理解する。
――ああ。この人。ミケを言い訳にしている。猫を盾にしないと、「行かないでくれ」が言えないのだ。
胸の奥が、ぎゅう、と締めつけられた。会社では誰より傲慢で、完璧で、近寄りがたい男。そんな人が今、見え透いた独占欲を隠しきれずに、必死で平静を装っている。
怖かったのだろう。私が、自分以外の誰かと親しくなることが。自分の居場所を失うことが。
私は自由なほうの手をそっと伸ばし、彼のスーツの袖を軽く掴んだ。瀬良さんの身体がぴくりと揺れる。
「……ミケのせいにするの、卑怯ですよ」
彼が息を止める気配がした。私は小さく笑う。そして、耳元でゆっくりと、彼の本当の名前を呼んだ。
「一輝さん」
その瞬間。彼は、まるで心臓を直接掴まれたかのような顔で目を見開いた。
◇
その日の夜、私の部屋にやってきた彼は、珍しく口数が多かった。しかも内容がひどい。
「いいか、はる。あの佐藤という男は、去年の忘年会で女性社員全員に同じ褒め言葉を使っていた」
「へえ」
「『その髪型似合うね』だ。テンプレートにもほどがある。言語センスを疑うな」
「別によくないですか、減るものじゃないし」
「誠意が減る」
ソファに座った彼は、いつものように完璧な姿勢で脚を組みながら、真剣極まりない顔で佐藤さんの粗探し――通称ネガティブキャンペーンを続けていた。
ちなみに今の彼の服装は、黒のニットに私の部屋着用スウェットという、ギャップで人を殺せそうな格好である。会社では氷の王様みたいな男が、私の部屋で猫じゃらしを揺らしながら真顔で嫉妬しているのだから、本当に人生はわからない。
私はそんな彼の話を半分聞き流しながら、膝の上で丸くなっているミケを撫でた。ミケは完全にくつろぎモードで、ぐるぐると喉を鳴らしている。
「……聞いてるのか?」
彼が不満げに眉を寄せる。
「聞いてますよ」
「今、絶対聞き流しただろう」
「聞き流してません。要するに、一輝さんの方がずっと仕事ができて、ずっと背が高くて、ずっと顔が良いって言いたいんですよね」
「当たり前だ。比較すること自体が失礼だ」
即答だった。
「自信の暴力」
「事実の確認だ」
彼はふん、と鼻を鳴らし、深くソファへともたれかかった。その横顔を見ながら、私はふと、小さく笑った。少し前までなら想像もできなかった。あの瀬良一輝が、こんなふうに感情を剥き出しにして嫉妬するなんて。
「……ねえ、一輝さん」
「なんだ」
「どうして私たち、会社でもよく色んな場所で会うんでしょうね」
何気なく投げた問いに、瀬良さんの動きがほんのわずかに止まった。ミケを撫でていた指先が、一瞬だけ静止する。
「……偶然だろう。世間は狭いんだ」
「でも、食堂にしろ給湯室にしろ、本来一輝さんのいるような場所じゃないですよね。流石に確率がおかしくないですか?」
瀬良さんは答えない。代わりに、ミケの顎を撫でる手つきが少しだけ雑になった。図星だ。この人、わかりやすすぎる。
「……一輝さん?」
畳みかけるように名前を呼ぶと、彼は諦めたみたいに小さく息を吐いた。それから、そっぽを向いたままぼそりと呟く。
「……君が、私の視界から勝手に消えるからだ」
私は目を瞬く。「えっ?」
「気づくと、いない。だから探しに行く。ただ、それだけの話だ」
瀬良さんは不機嫌そうに眉を寄せる。「ストーカーみたいな言い方はやめてくれ。不本意だ」
「いや、完全にストーカーですよ?」
「違う。君の行動範囲が予測しやすいだけだ」
「それをストーカーって言うんですよ」
彼は露骨に顔をしかめた。けれど私は、もう笑うしかなかった。
だって、その言葉は。どんな甘い愛の告白よりも、ずっと重く、私の胸に響いたから。
この人はきっと、ずっと孤独だったのだ。誰より優秀で、誰より美しくて、誰より高い場所に立ちながら。誰にも弱さを見せられず、誰にも素直に甘えられなかった。
そんな男が初めて見つけたのだ。対等に言い返してくる相手を。本性を見ても逃げない場所を。雨の日に拾った小さな黒猫と、狭いワンルームと、可愛げのない女がいるこの空間を。
瀬良一輝は、いつの間にかここを、本当の“帰る場所”にしてしまっていた。
「……性格、本当に問題がありますね」
私は呆れ半分、愛しさ半分で呟く。すると彼は、ゆっくりとこちらを見た。
「君に言われたくない」
「はい?」
「君こそ、私のような完璧な人間に平然とマウントを取る、唯一の不遜な女だ」
「それ褒めてます?」
「まさか」
口ではそう言いながら、彼は私の隣へ座り直した。ソファがわずかに沈み、二人の肩が触れ合う。
その瞬間、ドクンと胸が小さく跳ねた。近いのに、不思議と嫌じゃない。むしろ酷く落ち着く。彼の体温は、思っていたよりずっと熱かった。
会社で見せる彼は、いつも冷たくて、鋭くて、完璧で。まるで人間じゃないみたいだったのに。今こうして隣にいる彼は、不器用で、独占欲が強くて、寂しがりで、どうしようもなく人間臭い。
最悪な印象から始まった彼との日々は。もうすぐ「運命」なんていう陳腐な言葉でしか表せないものに変わってしまうのかもしれない。
「……はる」
「なんですか」
「来週の連休、ミケを連れて私の別荘に行くぞ」
「……は?」
話が飛びすぎて脳が追いつかない。「別荘?」
「ああ。山の方にある。あそこならペット規約もない。ミケが走り回れる場所がある」
「いや、だから」
「拒否権はない。私が決めた」
きっぱりと言い放つ。相変わらずの王様命令だった。けれど、私を見つめる瞳に宿る光は、どこまでも柔らかい。まるで、「一緒に来てほしい」と言葉にできない代わりみたいに。
私はしばらく彼を見つめてから、降参したように肩を落とした。
「……はいはい」
「なんだ、その気の抜けた返事は」
「お供しますよ、王様」
その瞬間、彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。まるで、世界で一番大事な宝物を手に入れた人みたいに。
膝の上では、我が家の主が、すべてを見通したような顔で満足そうに「にゃあ」と鳴いた。




