7
会社での瀬良さんは、以前にも増して私の視界へ入り込んでくるようになった。
――いや、違う。
正確には、異常な頻度で鉢合わせするようになったのだ。
もはや偶然では説明がつかない。
出社時間を少しずらしても会う。休憩を取るタイミングを変えても遭遇する。コピー機へ向かえば隣にいるし、会議室を出れば廊下の先から歩いてくる。
なんなら昨日は、給湯室で「今日はさすがに遭遇しないだろう」と安心していた瞬間、背後から突然、「そのインスタントスープ、塩分過多じゃないか?」と声が降ってきて心臓が止まりかけた。
怖い。本当に怖い。そのくせ、以前のような鋭い敵意は一切感じないのだから余計にタチが悪かった。
である朝。
出社してすぐ、眠い目を擦りながらエレベーターを待っていると、静かな到着音とともに扉が開いた。
そして私は、思わず足を止めた。
中にいたのは、瀬良一輝だった。
しかも朝から異様に絵になる。ダークグレーのスーツを完璧に着こなし、片手でスマホを眺めながらエレベーターの中央に立っている姿は、どう見ても一般企業の会社員ではない。海外ドラマの嫌味な若手CEO役か何かで出てきそうだ。
「……おはようございます、瀬良さん」
一応、社会人として挨拶をする。すると彼はスマホから顔も上げず、淡々と言った。
「最悪だ」
「はい?」
「朝一番で君の顔を見るとは。今日は株価でも大暴落する予兆かな」
「私の顔、不吉の象徴だったんですか」
「少なくとも私にはな」
「失礼の密度が高い」
呆れながら乗り込むと、瀬良さんはわずかに身体をずらし、私の立つスペースを空けた。
その動作があまりにも自然で、一瞬気づかなかったくらいだ。以前の彼なら、「人口密度が上がる」とか何とか言って露骨に嫌そうな顔をしたはずなのに。
私はちらりと隣を見る。瀬良さんは相変わらず澄ました顔でスマホを見ていた。
けれど、鏡張りの壁に映る横顔を見て、私は小さく目を瞬く。
耳元が、ほんの少し赤い。
……あ。なるほど。
私は口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。
この人、未だに私との距離感がわからなくなると照れるのか。しかも本人は完璧に隠せているつもりらしい。ちょっと面白い。
◇
また別の日。
社員食堂の隅にある自動販売機の前で、私は財布から百円玉を取り出そうとしていた。その時だった。
つるり、と指先が滑る。
「あっ」
銀色の硬貨が床に落ち、ころころと勢いよく転がっていく。
最悪だ。しかもよりによって昼休みの混雑時間帯。私は慌てて追いかけようとした――その瞬間。
長い脚がすっと伸び、転がっていた百円玉をぴたりと止めた。
顔を上げる。そこにいたのは、案の定というべきか、瀬良さんだった。
「……どん臭いな、はる」
彼は呆れたように眉を寄せる。
「地面に這いつくばって小銭を探す姿は、犬みたいだぞ」
「拾ってくれるなら普通に渡してください」
「比喩表現を楽しむ余裕もないのか」
「私に対して失礼では?」
瀬良さんは鼻で笑い、拾った百円玉を私に差し出した。私は「ありがとうございます」と受け取ろうとして――次の瞬間、ひやりと冷たい感触に肩を跳ねさせた。
「冷たっ!?」
頬に押し当てられたのは、缶コーヒーだった。瀬良さんが今しがた自販機で買ったばかりのものらしい。
「ほら」
彼は平然とした顔で言う。
「寝ぼけた頭を冷やせ」
「急に物理攻撃してこないでくださいよ……!」
頬を押さえながら抗議すると、瀬良さんはわずかに口角を上げた。それだけで、周囲の女性社員が小さくざわつく。本当に罪な顔だと思う。
「……でも、ありがとうございます」
素直に礼を言うと、彼は一瞬だけ視線を逸らした。
「礼を言われる筋合いはない」
「はい?」
「缶が冷えすぎて指先が痛かっただけだ」
「屁理屈のレベルが芸術的ですね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてません」
素直じゃない人だなぁ、とやっぱり思う。
そんなやり取りをしていると、少し離れた席からサトミがこちらを見ていた。彼女は私と目が合うなり、なんとも言えない顔をする。
昼休みに合流した瞬間、開口一番にこう言われた。
「……はる」
「なに」
「また瀬良さんに捕まってたよね?」
「捕まってたっていうか……」
「もうあれじゃん。呪いじゃん」
真顔だった。
「生霊とか憑いてない? 一回お祓い行く?」
「私、そんなに心配される立場?」
「だってあの瀬良さんだよ!?」
私は苦笑いしながら、手の中の缶コーヒーを弄ぶ。
以前の私なら、瀬良一輝に絡まれること自体がストレスだった。視界に入るだけで胃が痛かったし、嫌味を言われるたびに心が削られていた。
けれど今は少し違う。
もちろん相変わらず口は悪い。性格もひねくれている。言葉の選び方は致命的に終わっている。
でも。彼が私に投げてくる言葉には、もう以前のような冷たい刃がないことを、私は知っている。
あれは攻撃じゃない。たぶん、不器用な彼なりの会話だ。
どう接していいかわからないから、いつもの調子でしか近づけない。本当は構いたいくせに、素直に「話したかった」と言えないから嫌味を投げる。小学生男子みたいな遠回りをしてしまうのだ。
そう気づいてしまったら、もう以前みたいに本気で腹を立てることもできなくなっていた。
私は食堂の窓越しに、遠くを歩く瀬良さんの背中を見る。
相変わらず、誰よりも目立つ。誰よりも近寄りがたい。なのに時々、驚くほど不器用で、寂しそうだ。
……本当に、厄介な人を知ってしまった。
そう思った、その時だった。遠く離れた廊下の向こうで、彼がふと振り返り、私の目を一瞬だけ捉えた。
すぐにまた前を向き、何事もなかったように歩き去る。
けれど、その刹那。私は確かに見た。
彼の口元に、ほんの少しだけ浮かんでいた、気のせいかもしれないほどの優しい微笑みを。
私は缶コーヒーの冷たさが、なぜか頬ではなく、胸の奥をじんわりと温めていくのを感じていた。
厄介なのは、彼だけじゃない。こんなふうに、彼の小さな仕草に一喜一憂してしまう自分も、十分に、もう引き返せないほど厄介なのだ。




