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あの夜、雨の中で震えていた泥まみれの小さな塊は、今ではすっかり我が物顔で私のベッドを占領している。
しかも、ど真ん中だ。
人間用の枕を半分奪い、毛布にくるまって気持ちよさそうに喉を鳴らしている姿には、「保護された可哀想な子猫」だった頃の慎ましさなど一欠片も残っていない。
名前は、瀬良さんがつけた「ミケ」。
ちなみに、この猫はどう見ても真っ黒である。耳から尻尾の先まで見事な漆黒。夜中に電気を消すと、目だけがぼんやり浮かぶタイプの黒猫だ。三毛要素など、DNAレベルで存在しない。
当然、私はもっとまともな名前を提案した。クロとか、ノワールとか、せめて墨とか。
けれど瀬良さんは、腕を組みながら極めて真面目な顔で言ったのだ。
「高貴な漆黒だ。だからこそ、あえて庶民的な名前をつけるのが粋なんだ」
意味がわからない。
「その理論でいくと、フェラーリに『田中』って名前をつける感じですか?」
「近いな」
「近いんだ……」
まったくわからない。そんな押し問答の末、結局「ミケ」が定着してしまった。理不尽である。
「ミケ、また私のノートパソコンの上で寝てる……」
私は深いため息をつきながら、キーボードの上で丸くなっているミケのお腹を指先でつついた。ミケは「にゃ」と短く鳴いただけで、どく気配がない。むしろ「何か問題でも?」と言いたげな顔でこちらを見上げてくる。絶対に自分が可愛いことを理解している目だ。
瀬良さんのマンションは規約が厳しく、ペット飼育は禁止らしい。
最初は「病院に連れて行って回復するまでの一時保護」という話だったのだが、気づけばミケ用の食器が増え、猫砂が常備され、キャットタワーが設置され、私は休日にホームセンターで猫用品を吟味する人間になっていた。
人生、何が起きるかわからない。
そして当然のように、自称・飼い主の男もセットでついてきた。
瀬良一輝。
週に一度、金曜日に「ミケの視察」と称して私の部屋へやって来る、お顔のよろしい迷惑不審者である。
最初の頃は「猫の様子を確認したらすぐ帰る」と言っていたくせに、最近では普通に二時間近く居座る。しかもその態度が、あまりにも自然すぎるのだ。
「……おい、はる」
リビングのソファに腰掛けた瀬良さんが、不機嫌そうに眉を寄せた。
彼は今日も、モデルの撮影帰りみたいな格好をしている。黒のタートルネックに細身のスラックス。適当に座っているだけなのに雑誌の一ページみたいになるのが最高に腹立たしい。
そのくせ手に持っているのは、私が出した普通の麦茶だ。しかも高級ワインでも嗜むかのような優雅な仕草で飲んでいる。
「ミケの毛並みが少しパサついている気がする。ブラッシングの頻度を落としたんじゃないか?」
「落としてません」
私は即答した。
「季節の変わり目です。あと、その評論家みたいな口調やめてもらえます?」
「事実を述べているだけだ」
「猫の毛並みにそこまで真剣な顔する人、初めて見ましたよ」
瀬良さんはふん、と鼻を鳴らし、完璧な角度で脚を組み替えた。本当にこの人、どんな動作にも無駄がない。たぶんコンビニで肉まんを買うだけでも様になる。
「それにしても、君の部屋は相変わらず狭いな」
「ワンルームに何を求めてるんですか」
「視界に入る情報量が多すぎる。脳が落ち着かない」
「人の家に来ておいて失礼すぎません?」
私が睨むと、瀬良さんは涼しい顔で麦茶を飲んだ。
けれどその一方で、膝の上ではミケを抱きかかえ、顎の下をとろけるほど優しい手つきで撫でている。その指先が、ずるいくらい丁寧なのだ。会社で書類をめくる時みたいな冷たさはない。壊れ物を扱うみたいに慎重で、柔らかい。
ミケもすっかり懐いていて、瀬良さんの膝の上では警戒心ゼロで腹を見せる。
猫って、人間の本質を見抜くっていうけれど。……いや、この人の場合、本質が二種類あるのかもしれない。
会社での瀬良一輝は、今日も相変わらずだ。
部下には辛辣、上司にも容赦なし。会議では他人の企画を切り捨て、エレベーターでは平然と「人口密度が高い」と言い放つ。
この前なんて、新人のプレゼンを聞き終えたあと、「発想は悪くない。だが説明が壊滅的だな。聞き手に苦行を強いる才能がある」と真顔で言っていた。新人は半泣きだった。最低である。
けれど私は知っている。
そんな男が、雨の中で震える子猫を抱きしめていたことを。自分は泥だらけになっても、小さな命を守ろうとしていたことを。
そして今も、私の部屋で真剣な顔をしながら猫用ブラシのレビューを読んでいることを。
「これ、口コミ評価が低いな」
「何見てるんですか」
「ブラシだ」
「仕事できる男がする顔じゃないんですよ、それ」
「ミケのQOLに関わる問題だからな」
真顔で返され、私は思わず吹き出した。瀬良さんがこちらを見る。
「何がおかしい?」
「いえ。会社の人たちが見たら卒倒するだろうなって」
「……」
彼は少しだけ眉をひそめ、それから不自然に視線を逸らした。
「別に、誰にどう思われようが構わない」
「へえ」
「ただ」
ぽつり、と。
「君にだけは……変に思われたくない」
一瞬、時間が止まった気がした。私は瞬きを忘れる。
けれど当の本人は、言ってしまったあとで言葉の意味に気づいたらしい。
「……いや、違う。今のは言葉の綾で――」
珍しく歯切れが悪い。耳がうっすら赤い。
その姿があまりにも見慣れなくて、私はじわじわと笑いが込み上げてきた。
「瀬良さん」
「なんだ」
「照れてます?」
「デリートしてやる」
「物騒!」
ミケが「にゃあ」と鳴きながら、二人の間に割って入るように尻尾を揺らした。
その小さな温もりを見下ろしながら、私はふと思う。
最初は、本当に嫌いだった。顔が良くて、性格が悪くて、人を傷つけることに慣れている最低な男だと思っていた。
今だって、性格がひねくれていることに変わりはない。口を開けば嫌味ばかりで、素直さなんてどこにもない。
けれど。
時々ふと見せる不器用な優しさを知ってしまった今、もう以前みたいに「関わりたくない男」ではいられなかった。
ミケが幸せそうに喉を鳴らす。その音を聞きながら、私は胸の奥で小さくため息をついた。
……本当に。とんでもない男を拾ってしまったのかもしれない。




