表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/33

 翌日、オフィスでの瀬良一輝は、表面上だけはいつも通りの「嫌な奴」に戻っていた。

 給湯室でカップを洗っていると、背後から気配もなく近づいてきて、彼はわざとらしいほど冷たい声で言い放つ。

「おい、そのコーヒーの淹れ方、雑すぎるだろ。私の繊細な舌をバカにしてるのか? 豆の挽き方から勉強し直してこい」

 いつもなら、こういう一言だけで場の空気を凍らせるのが瀬良だ。案の定、周囲にいた同僚たちは「また始まった」とでも言いたげに、気の毒そうな目をこちらへ向けてくる。

 けれど私は、もう昨日までの私ではなかった。

 無言で顔を上げ、じっと彼を見つめ返す。すると瀬良はそれ以上何も言わず、すれ違いざまにすっと通り過ぎていく。長い脚が床を歩く音だけが、静かな給湯室に微かに残った。

 そして、彼が立ち去った後。

 私は自分のデスクに戻り、積まれた書類の端に目を落とした。

 そこに、付箋ひとつ貼られず、誰の目にも留まらないような小さな字で、乱暴に殴り書きされたメモがある。

『昨日は助かった。子猫の名前、ミケにした。……あと、今日の髪型、それなりに似合ってるんじゃないか』

 一瞬、脳が追いつかなかった。

 その意味を理解した途端、胸の奥から、こらえきれない笑いがふっと込み上げてくる。私は慌てて口元を押さえ、咳払いでごまかした。

 だめだ。こんなの、ずるい。

 あれだけ刺々しい顔で、あれだけ棘だらけの声で嫌味を言っておきながら、こっそりこんなことを書くなんて。しかも、ちゃんと私にだけ見える場所に、わざわざ小さな文字で。

 私はたまらず大きなため息をついた。呆れたふりをして背中を向けるけれど、口元の緩みまでは隠しきれない。

 性格は最悪。態度は不遜。マウント癖も、そう簡単には治りそうにない。

 それでも。

 昨日、雨に打たれたあの男の背中は、思っていたよりずっと小さくて、脆くて、震えていた。

 そして私は、それを知ってしまった。

 誰よりも強そうに見えるくせに、本当は誰よりも不器用で、誰よりも壊れやすいことを。

 やっぱり神様は彼の配分を間違えた。美貌と才能をあれほど与えておきながら、他人と関わる能力だけを、きれいに削り落としてしまったのだから。

「……全く」

 思わず小さくこぼれた声は、ほとんど独り言だった。

「これじゃ、関わらないなんて無理じゃない」

 その言葉の向こうで、オフィスの喧騒がいつも通りに流れていく。

 けれど私の視界の端では、すでに瀬良一輝という厄介で面倒で、ひどく目が離せない男が、静かに存在感を増し始めていた。

 ◇

 午後の打ち合わせで、彼は相変わらず鋭い指摘を連発し、周囲を圧倒していた。けれど、ふと視線が合った時、彼が一瞬だけ露骨に目を逸らした。ほんの一瞬、ほんのわずかだけ、彼の耳元が赤くなっているようにも見えた。……気のせい、ではないはずだ。

 退社時間、私は少し残業をして書類を整理していた。オフィスが静まり返る頃、ふと引き出しを開けると、中に見慣れない小さな紙袋が置かれていた。

 開けてみると、高級なコーヒー豆が一袋。その上には、またしてもあの乱暴な字で、一言。

『これで淹れ直せ。明日、味見する』

 私は思わず、紙袋をぎゅっと胸に抱きしめた。袋の隙間から、上質なコーヒーの香りがほのかに漂ってくる。

 窓の外には美しい夕焼けが広がり、ビルの窓ガラスを鮮やかなオレンジ色に染めていた。

「……ばか」

 こぼした言葉には、もう怒りなんて微塵もなかった。むしろ、どこか甘く、温かいものが胸の奥へ広がっていく。

 彼はきっと、このオフィスの誰よりも私のことを見ている。ただ、その見方がひどく不器用で、ぎこちなくて、時には人を傷つけるほどに鋭いだけなのだ。

 帰り支度をしながら、私は明日の朝のことを考えていた。

 どんな顔をして、どんなコーヒーを淹れよう。どんな一言をかけてやろうか。

 オフィスのドアを閉める時、ふと振り返ると、彼の無人のデスクが夕闇に沈みかけていた。けれど、その上には明日もきっと、また何か小さな「証拠」が残されるに違いない。

 私は小さく笑い、ドアを閉めた。

 外の空気は少し冷たかったが、私の頬はなぜかほんのり温かく、足取りは軽やかだった。

 厄介で面倒で、ひどく目が離せない。

 けれど、もう離したくはない。

 そんな男との、ほんの少し先の未来が、なぜかとても楽しみで仕方なかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ