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翌日、オフィスでの瀬良一輝は、表面上だけはいつも通りの「嫌な奴」に戻っていた。
給湯室でカップを洗っていると、背後から気配もなく近づいてきて、彼はわざとらしいほど冷たい声で言い放つ。
「おい、そのコーヒーの淹れ方、雑すぎるだろ。私の繊細な舌をバカにしてるのか? 豆の挽き方から勉強し直してこい」
いつもなら、こういう一言だけで場の空気を凍らせるのが瀬良だ。案の定、周囲にいた同僚たちは「また始まった」とでも言いたげに、気の毒そうな目をこちらへ向けてくる。
けれど私は、もう昨日までの私ではなかった。
無言で顔を上げ、じっと彼を見つめ返す。すると瀬良はそれ以上何も言わず、すれ違いざまにすっと通り過ぎていく。長い脚が床を歩く音だけが、静かな給湯室に微かに残った。
そして、彼が立ち去った後。
私は自分のデスクに戻り、積まれた書類の端に目を落とした。
そこに、付箋ひとつ貼られず、誰の目にも留まらないような小さな字で、乱暴に殴り書きされたメモがある。
『昨日は助かった。子猫の名前、ミケにした。……あと、今日の髪型、それなりに似合ってるんじゃないか』
一瞬、脳が追いつかなかった。
その意味を理解した途端、胸の奥から、こらえきれない笑いがふっと込み上げてくる。私は慌てて口元を押さえ、咳払いでごまかした。
だめだ。こんなの、ずるい。
あれだけ刺々しい顔で、あれだけ棘だらけの声で嫌味を言っておきながら、こっそりこんなことを書くなんて。しかも、ちゃんと私にだけ見える場所に、わざわざ小さな文字で。
私はたまらず大きなため息をついた。呆れたふりをして背中を向けるけれど、口元の緩みまでは隠しきれない。
性格は最悪。態度は不遜。マウント癖も、そう簡単には治りそうにない。
それでも。
昨日、雨に打たれたあの男の背中は、思っていたよりずっと小さくて、脆くて、震えていた。
そして私は、それを知ってしまった。
誰よりも強そうに見えるくせに、本当は誰よりも不器用で、誰よりも壊れやすいことを。
やっぱり神様は彼の配分を間違えた。美貌と才能をあれほど与えておきながら、他人と関わる能力だけを、きれいに削り落としてしまったのだから。
「……全く」
思わず小さくこぼれた声は、ほとんど独り言だった。
「これじゃ、関わらないなんて無理じゃない」
その言葉の向こうで、オフィスの喧騒がいつも通りに流れていく。
けれど私の視界の端では、すでに瀬良一輝という厄介で面倒で、ひどく目が離せない男が、静かに存在感を増し始めていた。
◇
午後の打ち合わせで、彼は相変わらず鋭い指摘を連発し、周囲を圧倒していた。けれど、ふと視線が合った時、彼が一瞬だけ露骨に目を逸らした。ほんの一瞬、ほんのわずかだけ、彼の耳元が赤くなっているようにも見えた。……気のせい、ではないはずだ。
退社時間、私は少し残業をして書類を整理していた。オフィスが静まり返る頃、ふと引き出しを開けると、中に見慣れない小さな紙袋が置かれていた。
開けてみると、高級なコーヒー豆が一袋。その上には、またしてもあの乱暴な字で、一言。
『これで淹れ直せ。明日、味見する』
私は思わず、紙袋をぎゅっと胸に抱きしめた。袋の隙間から、上質なコーヒーの香りがほのかに漂ってくる。
窓の外には美しい夕焼けが広がり、ビルの窓ガラスを鮮やかなオレンジ色に染めていた。
「……ばか」
こぼした言葉には、もう怒りなんて微塵もなかった。むしろ、どこか甘く、温かいものが胸の奥へ広がっていく。
彼はきっと、このオフィスの誰よりも私のことを見ている。ただ、その見方がひどく不器用で、ぎこちなくて、時には人を傷つけるほどに鋭いだけなのだ。
帰り支度をしながら、私は明日の朝のことを考えていた。
どんな顔をして、どんなコーヒーを淹れよう。どんな一言をかけてやろうか。
オフィスのドアを閉める時、ふと振り返ると、彼の無人のデスクが夕闇に沈みかけていた。けれど、その上には明日もきっと、また何か小さな「証拠」が残されるに違いない。
私は小さく笑い、ドアを閉めた。
外の空気は少し冷たかったが、私の頬はなぜかほんのり温かく、足取りは軽やかだった。
厄介で面倒で、ひどく目が離せない。
けれど、もう離したくはない。
そんな男との、ほんの少し先の未来が、なぜかとても楽しみで仕方なかった。




