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私のマンションの部屋には、雨特有の湿った空気と、ドライヤーの熱、それからほんのり甘いミルクの匂いが漂っていた。
リビングのローテーブルの上には、応急処置用に引っ張り出したタオルや消毒液、小さな段ボール箱。即席の猫用ベッドとして毛布を敷いた箱の中で、助け出された子猫は、ようやく少し落ち着いた様子で丸くなっている。
私はスマホで調べた通りにぬるめのミルクを用意し、百円ショップで買い置きしていたスポイトで慎重に飲ませていた。
「ほら、ちょっとずつね。慌てない慌てない」
子猫は震えながらも懸命に吸いつき、小さな喉を上下させる。その健気な生命力に、思わず胸の奥が熱くなった。
そして、その様子を瀬良はソファの端に座ったまま、じっと見つめていた。
まるで自分がこの空間にいていいのか分からない人みたいに、大きな肩を少しすぼめながら。
シャワーを貸したあと、私は父が以前泊まりに来た時に置いていった古いジャージを引っ張り出して渡した。サイズはさすがに少し小さいかと思ったが、瀬良が着ると妙に様になってしまうのが心底腹立たしい。
濡れたスーツは浴室乾燥に吊るし、泥で汚れた革靴は玄関脇に新聞紙を詰めて置いてある。
ドライヤーで乾かした髪はいつもの完璧なセットとは程遠く、少し柔らかく乱れていた。そのせいだろうか。普段の「近寄りがたい完成品」みたいな雰囲気が薄れ、年相応の青年らしさが覗いている。
それでも、整った顔立ちは隠しようがなかった。父のお古のジャージ姿なのに、なぜか雑誌のオフショットみたいに見えるのは理不尽極まりない。
けれど今の瀬良には、会社で見るような鋭い威圧感はなかった。誰かを値踏みする視線も、見下す空気もない。ただ静かに、小さな命の無事を願っている。
その姿は、不思議なくらい「普通」の人間だった。
「……すまない」
ぽつり、と。静かな部屋に、低い声が落ちた。
私は顔を上げる。
瀬良はマグカップから立ち上るコーヒーの湯気を眺めたまま、頑なに視線を合わせようとしなかった。
「君には、いつもひどいことを言った」
その声音には、いつもの皮肉も尊大さもなかった。私は何も言わず、続きを待つ。
瀬良は少しだけ口元を歪め、自嘲するように笑った。
「わかってるんだ。私は性格が悪い」
自分で言い切るその姿には、妙な痛々しさがあった。
「誰かの上に立って、優越感を確認していないと……自分が消えてしまう気がしてた」
窓の外では、まだ小雨が降っている。
部屋の中には、子猫の小さな寝息と、冷蔵庫の低い駆動音だけが響いていた。
瀬良はゆっくり息を吐き、ようやく重たい口を開いた。彼が語ったのは、まるで呪いのような過去だった。
厳格すぎる家庭。
幼い頃から、「完璧」であることだけを求められて育ったこと。
テストで九十九点を取っても、返ってくるのは褒め言葉ではなく、「なぜ一問間違えた?」という叱責だったこと。
食事のマナー、姿勢、言葉遣い、服装。ほんの少しでも基準から外れれば、価値がないと切り捨てられた。
「一番じゃない人間に意味はないって、ずっと言われて育った」
瀬良は乾いた笑みを漏らす。
「だから、怖かったんだ」
彼の長い指先が、マグカップの縁をゆっくりとなぞる。
「誰かに隙を見せれば、すぐに引きずり下ろされる。少しでも弱い部分を見せたら、自分の価値がすべてなくなる気がしてた」
その声は静かなのに、どこか切迫していた。
「だから先に攻撃した。相手を黙らせれば、安心できたから」
自分でも馬鹿げていると思っているのだろう。瀬良は俯いたまま、力なく笑った。
「……滑稽だろう? こんな図体をして、周りに怯えてるんだ」
その笑顔は、今まで見てきたどんな表情よりも脆かった。
会社で見せる、完璧に磨き上げられた仮面ではない。誰にも見せたことのない、本当の傷口を晒しているみたいだった。
私は少し黙り込んでから、ふう、と息を吐く。
「最低な奴だと思ってました」
瀬良の肩がぴくりと動く。
「今でも、全部許したわけじゃありませんからね」
私はキッチンから新しく淹れたコーヒーを持ってきて、彼の前に置いた。
「私の企画書、ボロクソに言いましたし」
「あれは事実を――」
「はい、そこ反論しない」
ぴしゃりと遮ると、瀬良は珍しく言葉を詰まらせた。
私は思わず吹き出しそうになる。こんなふうに会話できる日が来るなんて、数時間前まで想像もしなかった。
私はソファの背にもたれながら、眠っている子猫へ視線を向けた。
「でも」
そう言ってから、改めて瀬良をまっすぐ見つめる。
「泥だらけになって、この子を助けてた時の顔」
彼が目を瞬く。
「……レンレンより、ずっと格好良かったですよ」
部屋が、一瞬しんと静まり返った。
瀬良はぽかんとした顔でこちらを見る。本当に、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔だった。
数秒遅れて意味を理解したのか、彼の耳が、みるみるうちに鮮やかな赤へと染まっていく。
「……っ」
ガタッと椅子を鳴らすような勢いで視線を逸らし、手で口元を覆う。その反応があまりにも予想外で、私は思わず目を丸くした。
「え、なにその反応」
「……うるさい」
瀬良は完全に顔を伏せたまま、消え入りそうな声で呟く。
「君に褒められても、別に嬉しくない」
口調は相変わらずだった。けれど、そこにはもう、人を傷つけるための毒は一切なかった。
ただ、不器用なくらい、必死に照れを隠そうとしているだけだった。




