3
運命の歯車が、耳障りな異音を立てて狂い始めたのは、激しいゲリラ豪雨に見舞われた金曜日の夜だった。
連日の残業をようやく終え、私は重たい足を引きずるようにしてオフィスビルの外へ出た。――その瞬間だった。
視界の先が、真っ白に滲んだ。
まるで空が裂けたみたいに、冷たい雨が容赦なく地面を叩きつけている。バケツをひっくり返したどころの騒ぎではない。アスファルトにはあっという間に濁流のような水が溜まり、車道を走るタイヤが豪快に水飛沫を上げていた。
最悪だ。
私は鞄を抱き寄せ、せめて濡れる面積を少しでも減らそうと肩をすぼめる。折り畳み傘は持っているが、まともにさせそうにない。むしろ風に煽られて危険なほどだ。
駅まで歩けば確実にずぶ濡れになる。けれど、ここで雨宿りを続けていても状況は変わらない。
結局、私は覚悟を決めた。駅までの最短距離を、なるべく雨の勢いをしのげそうな路地を選びながら走り抜けるしかない。
そう思って、ビルの軒先から一歩を踏み出した、その時だった。
街灯の薄暗い光の下、植え込みの影に、人影がひとつ見えた。
こんな大雨の中、いったい誰が――。
そう訝しみながら目を凝らした私は、次の瞬間、思わず息を呑んだ。
長い脚を折り曲げ、膝をつくようにして地べたにしゃがみ込んでいる男。
いつも隙なく整えられている髪は、雨に打たれて乱れ、額に張りついている。仕立ての良い高級スーツはすっかり水を吸い、深い色に変色して重たく垂れ下がっていた。
――瀬良一輝だった。
あの瀬良一輝が、まるで迷い込んだ野良犬のように、ずぶ濡れのままそこにいた。
「……瀬良さん?」
驚きに押されるように声をかけると、彼の肩がびくりと大きく跳ねた。雨音に紛れていた気配に、ようやく気づいたらしい。
ゆっくりと顔を上げたその表情には、いつもの嘲るような笑みはなかった。人を値踏みする鋭さも、隙のない冷徹さもない。ただ、ひどく疲れ切った、今にも崩れてしまいそうな色だけが浮かんでいた。
絶対に弱みを見せるはずのない男が、たった一瞬だけ、全ての鎧を脱ぎ捨ててしまったかのように。
「……見なよ、これ」
掠れた声に促されるまま、私は一歩近づいた。
その大きな手の中に、小さく丸まった命があるのが見えた。
泥と血にまみれた、掌ほどの子猫だった。
細い体はかすかに震え、濡れた毛並みが痛々しく皮膚に張りついている。目もまだしっかり開いていない。今にも消えてしまいそうなほど弱々しい呼吸が、激しい雨音の向こうで、かすかに揺れていた。
「この子が、車に跳ねられそうになって……」
瀬良は、珍しく言葉を探すように視線を落とした。
「気づいたら、体が動いてた。でも、私のマンションはペット禁止だし、病院もこの時間は閉まってる。どうすればいいか……わからなくて」
その声は、いつも耳にする嫌味な調子とはまるで違っていた。
困っている。本気で、ただ困っているのだ。
目の前の命をどうにか守りたいのに、どうすればいいのかわからない。そんな子供のような戸惑いが、その低い声の端々に滲んでいた。
私は、思わず目の前の男を見直した。
オーダーメイドのスーツは泥だらけで、見る影もない。靴にも水たまりの濁った水が染み込み、普段の彼なら絶対に許容しなさそうな惨状だった。
けれど瀬良は、自分の体裁など一切気にしていないようだった。
ただひたすら、震える子猫を両手で包み込むようにして、少しでも体温を分け与えようとしている。その指先には、かすかな愛おしさと焦りが同居していた。
彼が周囲に見せつけてきた「傲慢な王様」という仮面が、激しい雨に溶かされて剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、誰かを見下す怪物ではなく、たった一匹の小さな命の前で立ち尽くす、不器用な一人の人間だった。
「私の家、ペット可です。ひとまず、連れて帰りましょう。温めないと死んじゃいます」
気づけば私は、そう口にしていた。
差し出した傘の下で、瀬良は一瞬だけ呆然としたように私を見た。
それから、ほんのわずかに肩から力を抜き、力なく頷く。
「……頼む」
その声は、驚くほど弱かった。
私は彼を傘の中へ引き入れ、子猫を濡らさないようにそっと身を寄せた。
雨は相変わらず激しく降り続いていたけれど、さっきまでとは世界がまるで違って見えた。
この男と私の間に、何かが静かに、確かに生まれ始めている気がした。




