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私は固く決めている。
業務上どうしても必要な時以外、瀬良一輝には近づかない。関わらない。できれば視界にも入れない。
それが、この弱肉強食のオフィスで心をすり減らさずに生き残るための、私なりの処世術だった。
彼に関わると碌なことにならない。
会話をすれば人格を削られ、目を合わせれば存在価値を査定される。あの男の周囲だけ、常に見えない毒ガスでも充満しているみたいだった。
だから私は徹底していた。
エレベーターで二人きりになりそうなら一本見送るし、社員食堂では彼の姿を見かけた瞬間に回れ右をする。会議室でも対角線上の席を死守し、廊下で鉢合わせしそうになればスマホを見るふりをして回避する。
同じ会社に勤めながら、ここまで一人の人間を徹底マークして避けているのは我ながらどうかと思う。けれど、精神衛生には代えられない。
……なのに。
なぜかこの男とは、異様なほど遭遇率が高かった。
もはや呪いの類ではないかと思うくらいに。
その日も私は、昼休みの喧騒から逃げるため、会社から十分ほど離れた裏路地のカフェへ向かっていた。
古びたレンガ造りの小さな店で、知る人ぞ知る隠れ家的存在。店内には静かなジャズが流れ、客層も落ち着いている。会社の人間に遭遇したことは、これまで一度もなかった。
だから安心して扉を開けたのだ。
――開けた瞬間、私は真顔になった。
テラス席。
午後の日差しを気怠げに浴びながら、長い脚を組み、エスプレッソを飲んでいる男。
黒いシャツの袖を無造作に捲ったその姿は、腹立たしいほど絵になっていた。大きめのサングラス越しでも分かる整った輪郭。まるで雑誌の表紙をそのまま切り取ったかのような光景。
そして当然のように、その中心にいるのは瀬良一輝だった。
「……げっ」
反射的に声が漏れる。しまった、と思った時にはもう遅い。
瀬良がゆっくり顔を上げ、サングラスの奥からこちらを見た。たったそれだけなのに、猛禽類にロックオンされた小動物のような錯覚に陥る。
「公共の場で奇声を発するのはやめてくれないか」
低く滑らかな声。耳に心地よいはずなのに、内容が最悪で全てを台無しにしている。
「育ちが知れるよ」
「すみません。あまりに不吉なものを見たので」
私はにっこり微笑んだ。
「お気になさらず」
瀬良の眉がわずかに動く。その反応を見る前に、私は踵を返した。
店員さんの「お客様?」という戸惑った声を背中に受けながら、そのまま店を飛び出す。
敗走である。でもいい。あの男と同じ空間でランチを摂るくらいなら、コンビニのおにぎりを公園のベンチで食べたほうが百倍マシだ。
◇
そして別の日。
会社帰りに立ち寄ったのは、駅裏にある古びた古書店だった。
木製の引き戸を開けると、紙とインクが混ざった独特の匂いが鼻をくすぐる。天井まで積み上げられた本棚、薄暗い照明、店主の趣味が全開の偏った蔵書。大型書店にはまず置かれないような専門書が眠っている、私のお気に入りの場所だった。
その日は探していた歴史書――『ビザンツ帝国興亡史』の初版訳注付きが入荷したという情報を聞き、半ば興奮しながら店の奥へ向かった。
そして、固まった。
いた。またいた。
しかも最悪なことに、目的の棚の前に。
「……また君か」
本棚の隙間からこちらを見た瀬良は、心底うんざりしたように目を細めた。薄暗い店内のせいで、その美貌が妙に妖しく、退廃的に見えるのがまた腹立たしい。
「ストーカーの才能でもあるのか? それとも私の私生活を覗き見て、弱みでも握るつもりかい?」
「自意識過剰です」
私は即答した。
「私はただ、『ビザンツ帝国興亡史』の原本を探しに来ただけですから」
「ふん」
瀬良は鼻で笑い、手にしていた分厚い洋書をぱたりと閉じる。
「君のような短絡的な人間に、この時代特有の権力構造や宗教観の機微が理解できるとは思えないがね。豚に真珠、あるいは馬の耳に念仏だ」
「……」
腹が立つ。ものすごく立つ。
今すぐその端正な顔面に世界史資料集を叩きつけてやりたい。けれど、言い返したところで十倍になって返ってくるのは経験上わかっていた。
私は喉元まで込み上げた反論を無理やり飲み込み、目的の本を棚へ戻した。瀬良のいる空間で本探しを楽しめるほど、私の精神力はタフではない。
「失礼します」
早口でそう告げ、私は逃げるように店を後にした。
夜風が火照った頬を撫でる。
駅前のネオンが滲み、行き交う人々のざわめきが耳を掠めていく。
偶然だ。これはただの偶然。統計学的にはあり得ないくらい不運なだけ。
そう自分に言い聞かせながら、私は早足で夜道を歩いた。
……けれど胸の奥では、じわじわと嫌な予感が膨み始めていた。




