32
夜の七時。約束の時間ちょうどに、マンションの前にはシルバーのプリウスが静かにエンジン音を響かせていました。
私が助手席のドアを開けると、車内には一輝さんが愛用する、洗練された香水の香りがふわりと広がります。
「一輝さん、お待たせしました」
「……三秒遅い。早く乗れ」
そう言って運転席に座る彼は、ジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を無造作に捲り上げていました。いつもの仕事モードの刺すような鋭さは鳴りを潜め、どこか気恥ずかしげな雰囲気が漂っています。
車が滑らかに走り出すと、前方を真っ直ぐに見据えたまま、彼はぶっきらぼうに呟きました。
「……今日は、お前の家には行かない」
「え……? どこに行くんですか?」
「私の別荘だ。……以前、お前が『星が綺麗だ』と言っていただろう。今の時期なら、あの場所でならもっと鮮明に見えるはずだ」
私は思わず目を見開きました。効率と利益を何よりも優先する一輝さんが、平日の夜に、都心からわざわざ離れた別荘まで車を走らせるなんて。それはあまりにも非合理的で、けれど、私にとってはこれ以上ないほど贅沢で優しい誘いでした。
「一輝さん……もしかして、私のために?」
「勘違いするな。単に予定が空いていたから連れ出しただけだ。……嫌か?」
そう言いながら、ハンドルを握る彼の手にはぐっと力がこもっていました。照れ隠しだと分かって、胸が温かくなります。彼は視線を走行車線から逸らさないまま、ぼそりと続けました。
「今日の会議の件だが。河野があの後、わざわざ私のところへ礼を言いに来た。……実に不快だった。別に感謝されるために助言したわけではないのだがな」
「ふふ、一輝さんらしいですね。でも、河野くん本当にやる気になっていましたよ。一輝さんの言葉が、毒じゃなくて薬になったんです」
「……薬、だと。ふん、せいぜい副作用で苦しまないことだな」
毒づきながらも、彼の加速する運転はどこか優しげです。シルバーの車体は首都高を抜け、夜の帳が下りる山道へと、私たちを運んでいきます。車内には静かな音楽だけが流れ、二人の呼吸が穏やかに重なっていく。
「はる」
「はい?」
「……目的地まではまだ時間がある。寝るなら寝ておけ。着いたら、……私が起こしてやる」
ぶっきらぼうな物言いの中に、隠しきれない慈しみが滲んでいます。私は「わかりました」と小さく笑い、彼の温もりに寄り添うようにして目を閉じました。
静かに流れる車窓の景色。彼が私のためにしてくれていること、彼が抱えている孤独。そのすべてを丸ごと愛したいと、揺れる車内で私は心からそう思っていました。
◇
満天の星が空を埋め尽くし、地上には深い静寂が降り積もる山頂の展望台に着く。冷え切った夜気とは対照的に、シルバーのプリウスの車内は、私たちの吐息が混じり合う濃密な熱気に満ちていました。
「……はる。明日も仕事はある」
一輝さんが私の身体を逞しい腕の中に閉じ込めたまま、耳元で低く囁きます。抗いがたい甘さと、有無を言わせぬ支配の響きを含んだその声に、私の理性は音を立てて溶かされていきました。彼の大きな掌が、私の肩を慈しむように、ゆっくりと、ゆっくりと肌をなぞっていきます。
「……はい。九時から、経営戦略会議……です」
熱を帯びた声で、私はそれだけを答えるのが精一杯でした。
「ならば、一時間だけ。……それだけ経ったら帰ろう」
彼は私の顔を両手で包み、自分の方を向かせました。その瞳には星明かりが宿り、深い海のように私だけを映し出しています。
一輝さんは私の唇を、まるで壊れやすい宝物に触れるように、そっと塞ぎました。
そのまま私は彼に全てを委ねた。
星が降る夜の静寂の中、私たちの熱を閉じ込めたプリウスは深い闇の中に浮かんでいる。




